水島新司「あぶさん」107巻

思い出のあぶさん

小学館 ビッグコミックス

水島新司



 水島新司「あぶさん」の連載終了の報は、「あぶさん」を読まなくなってから長い年月が経った私にとって特別感慨深いものではなかった。ああ、昔はよく読んでいたなぁという懐かしさはあれど、どうせみんなにあぶさんの偉大さを思い知らせた上で、多くの有名選手の贈る言葉でもって大団円を迎えるのだろう、という嘲りもあった。それほどまでに、自分の中で水島新司の作品は野球マンガとしてのリアリティを失っていたのである。
 幾多の高校野球マンガを読みふけり、無名の選手が全国区の名声を得て、プロの世界に羽ばたいていく。それが私の中の水島野球マンガだった。そんな中にあって、「あぶさん」は卒業した子どもたちが、どこかでひっそりと選手として活躍しているかもしれないという地続き感があった。現実の時間経過を踏まえつつ繰り広げられた主人公の景浦安武自身が、長期の不調で野次られたり自由契約されたり、落合と本塁打争いをしたりしても、あるいは代打専門だからこそ出来たパ・リーグを代表する投手たちとの一打席の名勝負を1話たっぷり描けたり、妙に新鮮かつ現実感があった。代打なら、確かにこんな選手がいてもおかしくないし、選手として引退してもおかしくない肉体的な限界があったとしても、代打なら現役を続けることも出来るかもしれない。仮に景浦のようなフィクションのキャラクターが登場したとしても、現実の選手を押しのけてまでしゃしゃり出ることはないだろうという理屈でない安心感もあった(まあ、義弟や息子の景虎などが登場し、息子に至ってはかなり活躍したらしいが)。
 門田が引退したとき、正直景浦も潮時だろうと思っていた。「あぶさん」という作品ではなく、景浦という選手も引退してコーチ編が始まって、また裏方の人々を地味に描くのかなぁ。そんな期待があったのだけれども、あっさりと裏切られてしまった。
 もちろん、水島新司が自分の生み出したキャラクターたちを存分に描きまくりたいという欲求は「大甲子園」ですでに披瀝されていたわけだけれども、まさかそれが「あぶさん」にまで及んでしまうとは夢にも思わなかったのである(他にプロ野球を題材にした水島マンガはもちろんあったけれど、どれもリアルタイムで読むには古過ぎたために、私にとっては「あぶさん」こそが水島プロ野球マンガの原点なのであるよ)。40歳を過ぎた景浦が代打からレギュラーになる……この時、私は「あぶさん」を読むのを辞め、継続して買い続けていた単行本も押入れの奥深くに仕舞われたのである。リアリティを失った野球マンガ、これがその後の「あぶさん」の私の認識となった。
 息子・景虎がプロ野球選手になって景浦と親子対決となったときに、ちょっとワクワク、ときめいてしまったこともあるけれども、それでもそれっきりちょっと読んだだけで、最終巻となる107巻まで、「あぶさん」に触れることはなかった。
 さてしかし、そんな複雑な思いで読んだ最終巻は、なんだか寂しさでいっぱいだった。現実に2013年のホークスの成績も影響しているのかもしれないけれども、107巻冒頭から、もうグランドフィナーレに向けた助走が始まっているんだなぁ……そんな予感があった。
 コーチを退き、その後描かれる「大虎」の老いた仲間との交流、投手から野手に転向していた景虎(肩を壊したの?)の苦悩など、物語全体までも景浦のようにひっそりと幕を閉じようとする寂寥感。あれ、野村監督がやっぱり景浦は素晴らしい選手だったとか言いながら大虎に顔を出すんじゃないの? 王監督が寂しげに景浦を訪ねて大虎に顔を出すんじゃないの? 大沢監督がべらんめぇとか言いながら笑顔で天から大虎を見守るんじゃないの? あれ? 予想と違う展開に、正直戸惑った。あぶさんを称えるのは仲間たちだけで、実在のプロ野球選手たちが大虎を訪ねてこないのだ(地味に画家の中島潔がまだいたのに驚いた)。これは一体どういうことなんだろう。
 作品そのものが景浦という野球選手の思い出話に花咲かせているとも言えるけれども、本来ならば私が前述したような演出があってもおかしくない。とにもかくにも華々しい活躍を成し遂げた選手なのだから。だが、そうした光り溢れる場面を「あぶさん」はことごとくカットした。最終話「大吟醸あぶさん」において、武藤酒造のワカ先生が言う(っていうか、ワカ先生まだ生きていたのか……)「退団騒ぎで忙しかろに」という言葉にあるとおり、実際は記者会見や各種メディアからの取材攻勢があったに違いない。そうした外に向けた言葉ではなく、内に向けた言葉を作品で語り続ける。コーチを引退するときも選手たちに向けて「鷹の選択」の話をしただけで、偉大な景浦選手、という立ち位置をことさらに強調しなかった。
 ワカ先生の作った酒を持って旅に出る景浦も、かつて戦ったスター達を訪ねるわけでもない。亡き父や恩人への挨拶というありきたりな展開で幕を閉じる。萬代橋から信濃川を眺める景浦も、シーズンオフの一場面ではおなじみだろう。まるで長年のファンに向けた物語そのものではないか。
 いつの間にこんなしんみりしてしまったのだろうか。今一度、代打として奇跡を見せてくれることもない。千曲ホークスとの草野球も代打で登場するのは妻のサチ子だった。もちろん、千曲川が新潟県に入ると信濃川と名称が変わることを踏まえれば、そこから発想を飛躍して、この草野球の試合描写を意味付けることは出来よう。今後も野球を愛し続ける景浦の姿は容易に想像できる。
 この思ってたんと違う感は、久しぶりに「あぶさん」を読んだせいもあるのかもしれないし、ずっと作品を読んでいた読者にとっては何を今更感なのかもしれない。だが、違うんである。この感覚、喩えるならば、久しぶりに会った明朗闊達な旧友の平々凡々なサラリーマンにありがちな愚痴にくだ巻く姿に付き合わされたような衝撃とでも言おうか。単刀直入に言えば、老いた、のである。
 それが作品としての衰えなのか、物語上の必然なのか、私には判断つかない。いずれにせよ、「あぶさん」は終わった。現役時代の景浦の活躍を思い出したく、私は長らく眠らせていた代打時代の「あぶさん」を描いた単行本を読み直したいと思う。
 大好きなプロ野球選手が引退したとき、現役時代の輝かしい活躍の映像をYouTube等で見るときの郷愁と同じなのかもしれない。
 ありがとう、景浦安武。ありがとう、水島新司御大。
(2014.4.7)

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