「惡の華」11巻

旅人

講談社コミックス マガジンKC

押見修造




 「旅人は待てよ
  このかすかな泉に
  舌を濡らす前に
  考へよ人生の旅人
  汝もまた岩間からしみ出た
  水霊にすぎない」
  (西脇順三郎「旅人かへらず」の「一」より)
 11巻、最終巻が出てから暫くが過ぎた。正直言うと、特に思うところはない。だが、この思うところがあるはずだった感触を10巻まで実感していただけに、肩透かしを食らったようなモヤモヤがずっと残っている。
 主人公の春日にとって仲村との再会は彼の人生において重大事のはずであった。彼はそこに恋人である常磐を連れて行く。いや、正確には彼女が付いて行くと言い出す。春日は木下から渡された仲村の居所が書かれた紙を託し、彼女に連れて行ってもらう格好で春日は電車を乗り継いだ。目的地は、千葉県の外川である。銚子鉄道の終着駅、群馬から見れば、海に囲まれたこの町は向こう側の果てと喩えてもいいのではないか。群馬から大宮、そして外川。春日の旅は、山場を迎えていた。
 よくよく考えてみれば、どこにも行き場がないと嘆いていた群馬の田舎町を仲村との事件によって逃げるようにやってきた場所が、奇しくも大宮という地であるのは、春日の今後の人生を想像する上で魅力的であった。日本有数のターミナル駅を控えた東日本の交通の要衝と言って過言ではなく、春日は、これからどんなところにも行くことが選べる場所に・人生においても立ったはずであった。
 ところが、彼は新天地において、きごちない普通の学生生活の中で息苦しさを拭えずに窒息しかけていた。仲村の影を求める彼の姿は、読者に対して・否、正確に書こう、私に対して、春日と仲村が傷付けあう関係から次のステージ・純愛に進む前段階だという期待があった。ところが、常磐である。
 もちろん彼女のキャラクターとしての魅力も申し分ないが、彼女の抱えた闇あるいはからっぽな自分は、全て彼女の筆によって小説と言う架空の世界に閉じ込められていた。彼女はいつでも小説から飛び出せたし、現に彼氏もいたし人気者だった。いや、彼女の本心も春日と同様であったことは間違いない。しかし、この春日や常磐に対する特別感は、なんとも自分の中で整理しきれないのである。
 自分は特別な人間だという万能感は、年を経るにつれて消えて行き、返って普通であること・取るに足らない平凡な人間であることを噛み締めていく。「本を読む自分」という春日の選民視は、常磐も抱いていた空虚さであり、だからこそ二人は惹かれあったのだけれども、そうした感覚は、この作品において二人だけのものであったのかと言うと、そんなことは全くない。もっともフィクションだし、彼らを中心に描いているからこそ、彼らの気持ちと言うものを理解できるのであって、名も無きキャラクターたちにもそんな気持ちはあるのだ、といったような物語は必要ない。ところが、あまりにも自分たちの特別さを強調しすぎるように思えてならないのである。
 10巻の感想で、木下と春日の周囲でざわめくファミレスの人々の描写を思い出す。若者たちがバカ笑いをしているのは事実であるが、彼らが春日や木下が抱える行き詰まりを感じていないかどうかは定かではない。春日と常磐の仲をからかうクラスメイトにしても、彼らが二人を羨ましがっているだけでなく、恋人がいないという苦悩を別に抱えてもいるだろう。それこそ、春日や常磐のように無理をして友達付き合いをしているキャラクターもいるかもしれない。
 いや、そんなことは重大な問題ではない。というのも、10巻までそうして描かれていた赤の他人の描写が11巻で激減してしまうからである。春日・常磐・仲村。この三人の心の描写が中心であり、特に春日に至っては悟ったかのように他人からどう見られているのかという視線をほとんど意識しない。自分の中に巣食っている中学時代の事件と向き合い続け、常磐によってほぐされていく展開は、春日がどんどん無気力になっていくような錯覚に陥る。常磐は、まるで春日を無条件に溺愛する母親のような寛大過ぎる存在なのである。
 それは確かに常磐の愛の深さを測ることになろう。だが、春日のこの受身過ぎる姿勢は、問題を成り行きに任せているような気にもさせるし、やはり「無気力」という言葉が自分の中にしっくり来る。自分の想いには一直線な気質がありながらも、そうでない存在・好意を寄せていない相手に対する無関心な様子は、「ひさしぶり」とどちらが声をかけたかを振り返れば明らかではないか。
 佐伯、木下。中学時代の春日を知る二人と久しぶりに再会した春日は、その姿を見ても自分から声を掛けられない。彼女たちから「ひさしぶり」と声を向けられて、ようやく春日は彼女の名を呼ぶ。仲村との再会でさえ、彼は仲村から声を掛けられるのを期待していたではないか!
 からっぽ人間なのだ。春日は真にからっぽ人間なのだ。彼はそれについて深く悩みながらも、やがてからっぽであることに唯々諾々とし、肯定し、常磐という母親を得たことで満足したのだ。足りないものは全部彼女が補ってくれる。何かを表現する・書くと言う行為も、読むと言う行為も、彼女が替わりにやってくれる。いやそもそも、生来、春日はそういうキャラクターだったのではなかろう。
 佐伯をファム・ファタールと崇め続けた果てに、彼女は娼婦のごとく胸を強調し、他人に見られる意識に支配された。仲村の身のうちに巣食う性衝動を理解できず救う術を捨て、向こう側と称した死の世界に飛び込もうとした。仲村は何故、春日を突き飛ばしたのか? この提起そのものが間違っている。春日は何故仲村を拒んだのか?
 夏祭りの夜空に咲いた悪の華は、仲村が春日を突き飛ばしたことでその目を閉じた。春日にとっては悪の華は身の外に存在していた。咲き乱れ語りかけ散っていったとしても、自分の身の内に変化が生じるわけではない。あくまでも悪の華を見ることによって、彼自身が影響を受けるのだ。いくら悪の華・つまり仲村や佐伯・常磐、さらに父や母を加えてもいいだろう、そうした周囲の環境が変わろうとしても、それに春日が目をつぶってしまえば、それについて考える必要がなくなるのだ。
 だが、仲村の身に咲き続けていた悪の華は、一切目を閉じることは無かった。仲村は春日の身のうちにも巣食っていると思っていた悪の華を見たかったに違いない。だが、彼はからっぽだった。仲村が変態行為を強要し、春日の被る皮をどんなに剥ぎ取っても、中身なんてはじめからなかった。そして皮肉にも、仲村は佐伯の身のうちに巣食っていた悪の華を咲かせてしまう。火事を起こした直後に「どうして私は仲村さんじゃないの?」という佐伯の本心を抉り出した仲村は、自分たちよりも先に街をぐちょんぐちょんしてしまった佐伯に嫉妬したに違いない。街の中の暗闇に春日を残して去っていく仲村の哀しさは敗北感の表れだ。
 それにしても仲村の選択は、本当に一人で死ぬことだったのだろうか。彼女は、夏祭りの主役の座を奪い取った一つの武器だった包丁をいつの間にか捨てていた。春日を突き飛ばすために! 残った武器がライターと灯油では、彼女の内なる衝動に誰もたじろぐことはないだろう。いや、ただ一人いた、やはり、春日だった。
 仲村は亡霊になることで、春日の中で未来永劫生き続けようとした、というのはちょっと考えにくいけれども、灯油を浴びた仲村・春日が最後に見た仲村の姿は、幽霊さながらの雰囲気を醸していた。あの時、仲村は春日の中で確かに死んだのだ。
 春日の悪の華は、常磐によって芽吹こうとしていた。彼女との交流を通して、春日は仲村と同じような境地・身の内の悪の華を目覚めさせようとする。高校編は、そのための準備期間だった。だが、彼女への愛を実感した春日は、仲村には言おうとも考えなかった告白を決してしまう。
 その時、からっぽだった春日に、もう一人の自分が登場した。9巻である。幻影は叫んだ、「おまえはなぜ仲村に突きとばされたのか わかってないじゃないか 仲村はおまえと同じものなんて見てなかった 仲村の何も救えなかったじゃないか おまえは!」
 身の内にいつまでも響き続ける哄笑が、春日の悪の華を咲かせた。春日と見詰めあう、濡れそぼった仲村の幽霊。互いの目がクローズアップされると、光を失った悪の華の目が、じっと見開くのである。それは仲村の目とも、春日の目とも重なる。
 「時々この水の中から
  花をかざした幻影の人が出る
  永遠の生命を求めるは夢
  流れ去る生命のせせらぎに
  思ひを捨て遂に
  永劫の断崖より落ちて
  消え失せんと望むはうつつ」
  (「旅人かへらず」の「一」より)
 華をかざした仲村(6巻158頁)は、夏祭りの断崖から落ちること叶わず(7巻)、春日の前から消えた。今また現れた仲村は、春日が想像した夢に過ぎないけれども、彼女は実に寂しい姿で再登場した。寂しい、とは随分と平凡な表現かもしれないが、そうとしか言えない表情だった。仲村を救えない現実は今更どうにもならない。けれども、常磐なら救えるかもしれない、今この手で救い出せるかもしれないのだ。不幸を撒き散らしてきた自分と言う存在を過去のものとするためにも、彼は、たった一人でもいいから、誰かを救う存在になろうと決意した……
 こうして振り返ると、10巻の途中までの流れは必然とも言える物語であるように思える。仲村の身代わりでしかなかった常磐も、佐伯に「あの子も不幸にするの?」というきっかけがあったとはいえ、外部に求め続けていた自分の拠り所を、自分の内に取り込もうとする精神の旅だと言えば納得がいく。
 旅人としてさ迷い歩いた春日が、ようやくたどり着いた最果ての地で待ち構える幽霊と、とき色に染まった浜辺で対峙した。さてしかし、ここで常磐なのである。
 もちろん、仲村に常磐の存在を知らしめる必要性はあっただろうが、やはり母親然とした彼女の言動は、春日の卑小さを増幅するだけのように思えてならない。
 仲村は、海に囲まれた外川と山に囲まれた群馬の小都市の類似性を暗に指摘する。日がどこから昇りどこに沈むのか、その差はたいしたことがなかった。その景色を受け入れるか、受け入れないか、それは場所の問題ではなく自分の問題だった。どこに行っても自分から逃げ出すことは出来ないからだ。
 となれば、それは春日にとっても同じことだろう。仲村の今の姿がどうであろうと、常磐とどう繋がろうと、彼は自分から逃れることは出来ない。互いに差し出した右手を合わせる儀式めいた行動は、両者が今どこにいるのかを確かめ合う行為だった。
 悪の華を握り潰した右手で常磐を外の世界に連れ出した春日の、毅然と差し出す自信を、その匂いを1巻の頃のように嗅ぎ取ることで察した仲村は、身の内にいまだ巣食っている悪の華を見せた。それは単に夕焼けの空を見上げただけかもしれないけれども、春日が自分と違う種類の人間になったことを悟った瞬間でもあった。仲村はまだ、この右手の所在を見出してはいない。
 「若葉の里
  紅の世界
  衰へる
  色あせた
  とき色の
  なまめきたる思ひ
  幻影の人の
  かなしげなる」
  (「旅人かへらず」の「一六六」より)
 落ち着いた仲村に生じる違和感を春日は感じ取る。「どいつもこいつもクソセックスのことばかり!」と憤っていた仲村ではなかった。本音をさらけ出せよ、とばかりに春日は仲村に飛びつくのだ。本当は艶めいた自分に腹が立っているくせに! なかんずく恋人まで連れてきやがって、と怒っているくせに!
 春日は何故仲村を拒んだのか? 仲村の言う「ふつうにんげん」に、彼はやっぱりなりたかった、変態ではなく、普通にどこかの町で暮らしていきたかった。春日はかつて仲村への好意を佐伯にだけはっきりと告げていた。仲村は春日の想いに気付いていただろうか。下半身を侵食する性衝動にどう対応してよいかわからず混乱するだけだった仲村は、春日の好意を受け入れる準備ができていない。春日の盲従とも言える衝動の本質に気付きつつも、理解しようとはしない。いや、最後の最後で理解した。だから仲村はは春日を突き飛ばす格好で、春日を生かしたのである。だって、愛する人を死なせるわけにはいかないじゃないか。そしてそれは、娘を必死になって助けた仲村の父にも通じるのだった。
 「これはうつつの夢
  詩人の夢ではない
  夢の中でも
  季節が気にかかる
  幻影の人の淋しき」
  (「旅人かへらず」の「一六七」より)
 春日の中に現れたもう一人の自分・幻影は、時に仲村と重なり、時に常磐と重なり、あるいはに木下と重なり、そしてまた自分自身にも重なった。夢の中の花畑を歩く彼は、「ふつうにんげん」として仲村に認められながらも、どこか不安の影が生じているように思うのは、私のひねた読み方が原因だろうか。どこか寂しいのである。穏やかな表情を見せつつも、夢から覚めた春日の、何かを書かずにはいられない衝動。常磐が自らの衝動を創作にぶつけるのとは対照的に、春日はどこに衝動をぶつけようというのか。それとも、そんな振りをするだけで、彼はどこまでいっても無気力なままの、からっぽ人間なのだろうか。だとしたら、彼の中に巣食っていた幻影はどこに行ってしまったのだろうか。
 劇中で直接触れられることはないが、春日が中学時代に読んだことは間違いない詩がある。詩人・西脇順三郎の「旅人かへらず」という一六八節に及ぶ長い詩である。詩人は様々なところを歩き回り、最後をこう結ぶ。
 「永劫の根に触れ
  心の鶉(うずら)の鳴く
  野ばらの乱れ咲く野末
  (中略)
  草の実のさがる藪を通り
  幻影の人は去る
  永劫の旅人は帰らず」
(2014.6.30)

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