「あの夏の甘い麦茶」

集英社りぼんマスコットコミックス クッキー 「女の子の食卓」2巻より

志村志保子



 食べ物を通して語られる人生の断片や思い出の一片を描いた志村志保子の連作「女の子の食卓」が素晴らしい。  他人から信じられないと驚かれるような嫌いな食べ物とか、ありえないと嘆かれるほど食べ続けてしまう好物は誰にでもあるだろう。または特別な日に食べた平凡な食事が思い出にもなろうし、ありふれているからこそ、ありふれた物語が常に目の前に転がっているもので、当たり前すぎて気付かれないだけなのかもしれない。「あの夏の甘い麦茶」の主人公である姉妹が友人宅で飲んだ甘い麦茶も、確かに驚きではあっただろうけど、あんたの家の麦茶は甘くしてる? 程度のちょっとした世間話の中に埋没してもおかしくはなかった。
 友達の家で食べたおやつが、自分家で食べるそれと味付けが違うことを発見したときの感覚が、本編の基調である。食べ方、調理の仕方、味付け等それぞれに各家の個性があるけど、子供にとっては自分家だけが世界標準だから、その衝撃は他人を意識するだけに留まらず、自分がどのような立場なのかをもはっきりと意識させる。曖昧だった世界との境界線が、くっきりと浮かび上がってくると、それがたとえ一杯の麦茶であったとしても、子供の小さな世界観なんかふっとぶほどの激震なのである。
 甘い麦茶が普通だと思っていた友人にとっても同様の発見があっただろうけど、姉妹にとっては激震の予兆だった。3年前に離婚した父の家への途次、壊れたかき氷器ペンギン丸を修理してもらおうという妹の思いつきに付き添う形になった姉は、父が既にうちの父ではないことを理解していた。でも父が父であることに変わりないし、父自身も離婚してもお前たちの親だという思いがあった。おそらく優等生だろう・少なくとも真面目な姉と奔放な妹の対比が机の整理具合(2巻8頁1コマ目)からも伺える。バスに乗って地図を広げて通りすがりの人に道を尋ねて、ようやくたどり着いた父は、月に一度の面会のときと同様に明るく出迎えてくれた。はしゃぐ妹を見ているうちに、ちょっと引け目を感じていた姉も、やはり父は好きだったわけで、良い口実が出来て嬉しかったに違いない。
 父の家には同居人がいた。再婚するつもりらしい相手には子供もいて、お父さんと呼ばれていることに能天気な妹もショックを受ける。でも、まだ父はうちの父だった。ペンギン丸は前のようにほいほい直してくれた。ところが、のどが渇いたと言って飲んだ麦茶が姉妹を襲った。
 絶句する妹にかわって姉は帰宅の意を告げる。急な申し出に父は慌てるが、姉妹は逃げるように父の家を出て行った。甘い麦茶を一気に飲み干す父の姿は姉にとって、この人はもう他所の家の人だという事実を訴えていた。ここからの描写に私は圧倒された。
 一口飲んだだけで去った姉妹は帰路を姉を先頭に縦に並んで歩く。行きは誰が前に立つでもなく遊び気分でいた二人が、まるで葬列のような面持ちで見知らぬ土地を歩くのである。蝉のうなり声を背景にうつむき加減の妹が麦茶について話すと、姉はただ「うん」と答えるだけだった。父はもう他人である、決して口にしたくなかった言葉・考えたくなかった事実が、甘い麦茶だったことを確認する妹の声によって喚起される。同じ構図の横長3コマ(2巻19頁)、ただ妹のセリフの内容だけが違うが、これによって二人と読者の距離感が固定される。姉妹が衝撃を受けていることを傍観しているような読み手は、引いた構図がために中々心情に共鳴できないんだけど、次頁、妹の口元がアップにされ、「うちのお父さんじゃないんだねえ」によって、一辺に二人の世界に引きずり込まれた。背景も蝉の声も消え、ただ妹のセリフ・ふきだしだけが白い空間に浮かんでいる。何も考えられないような状態、ほんとにショックを受けている状態が、表情ではなく空白で描いてしまったところに驚いた。ふきだしには影がついていて、だから姉の脳裡・空間には、この言葉しかないのだ、「うん」と生返事していた姉が、それさえ出来ない現実を目の当たりにして絶句する。父と私たち姉妹の間に境界線が引かれた・というより元からあった線に今やっと気付いた瞬間。当の妹も言葉の意味は自覚していない、ただそう思ったから言ってみただけだろう。
 姉妹が主人公と述べてきたが、厳密には姉が主人公である。姉の視点から物語は描かれ、展開される。だから妹の態度も客観的だ。父が麦茶を飲む場面も姉の見たものとして描写されている。だが姉の冷静な態度を揺るがす言葉は妹の一言なのだ。蝉の声も戻り、姉は泣いてしまう。一人では認識できなかった現実が、向こう見ずな妹によって明らかにされると、妹本人も姉の様子にうろたえてしまう。妹も姉の涙に現実を認識したのである。泣きながら歩く二人(21頁下段)は象徴的だが、この時読者は二人の心情から傍観者に戻っている。この姿を他人の視点・読者の視点に戻しているのが、その前のコマの二人を見ただろう通り過ぎる人々の絵でなのである。姉妹の心を一気に引き寄せたと思ったら、小さなコマひとつで再び傍観者の立場に戻すってのがまた素晴らしい。でもって次頁上半分の白いコマだ。先の妹の言葉を受けてのものだろう。泣き続けていることを白い空間で表現しているのである。うちの父ではないという言葉はやがて消え去り、何も考えられない状態を通過すると、バスに乗って自宅に戻る姉妹の姿があらわになり、同時にうちを大事にする気持ち・母への親愛が芽生える。おそらく手をつないでいるだろう二人の前に、まさに母の背中が現れる。背中を強調するってのがまた上手いんだけど、どこかで冷たいもの飲もうか・かき氷食べようかという母の提案に、うちに帰って麦茶が飲みたいという二人のいじらしさが子供らしさを強めてくれて、厳しい話を和らげてくれた。
 母の背中をつかむ姉の姿、これが先ほどの背中の強調と繋がっているわけだが、このコマでは背中そのものが描かれているわけではない。おそらくつかんだことで生じただろう服のシワと姉の手が描かれているだけだ。横長のコマ、実際はそんな大きい背中ではないけれど、この時の姉妹には、母はうちそのものであって、大事な大事な存在なのである。姉は単に母の背中をつかんだのではないのだ、うちの世界を守ってくれる支柱にしがみついたのだ。
 さて、物語は今に戻る。冒頭から回想していることをほのめかしていたが、今の姉妹の姿・しかも姉は結婚して子供もいる。「昔の話だ」ということを念押しするようにまた「本当に昔の話だ」と語る姉。妹の来訪に麦茶を差し出し「甘かったりして」とちゃかせるほど昔の話にはなったけど、それほどの昔でありながらも今なお忘れられない姉妹だけが共有している出来事は、決して甘くはなかったのだ。

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