「青い車」

イーストプレス「青い車」表題作

よしもとよしとも



 人生の哀しみとは、新品の靴底にひっついたウンコである。と川原泉は書いています。うきうきした気分が一瞬にして吹き飛ばされるその感触、たとえ他人に現場を見られなくても、踏んだという覆せない事実が本人を苛み苦しめることでしょう。笑い話や忌々しい想い出にはなっても決して同情されることのない出来事、それが哀しみというものでしょうか。
 阪神・淡路大震災。生きてることをラッキーだと思った人は被災者なら誰でも感じたことでしょう。では、ウンコを踏む確率とその被災者になる確率はどっちが高いかと考えると、なかなか答えが出ないものです。「青い車」の主人公・リチオは10歳のとき事故に遭い、顔が変形し人より2年遅れて生きることになった青年です。生き続ける確率より死ぬ確率が高い世界を経験した彼にとって、人生の哀しみとはなんでしょうか。
 震災の日、まったく関係ない場所で自動車事故で死んだ彼女、その妹と事故現場へ弔いに向かう話し。それだけの物語性も緊張感も昂揚感も興奮もない、詩に近いけれどそれとも違う、無意味な言葉の羅列を読んでいる、それら言葉の意味は読者個々人にゆだねられているような旋律を聴いている感覚、そして何度も読もうと思ってしまう不思議な作品です。
 題名の由来とか、劇中に引用される歌詞とか、そういうものについて私は関心がありません。私がこの作品から感じることのひとつに、生きていることをラッキーだと思うリチオの哀しみです。周囲からはまったく理解されない環境で生きる彼の心境は、表面で世渡りする呼吸をしなければならない不自由さと過去の苦悩を語ったところで同情もされず「だからどうした」と言われるような世間に対する寂しさに満ちているようです。なんだかわけのわからないことを自慢たらしく言う人がいますけれど、たとえば睡眠時間の短さを主張したり、テスト勉強していないことを強調したり、自分のひいきにするプロ野球球団の勝利を自分のおかげだといわんばかりに訴えたり、流行の映画を早々観てまだ観ていないのかと言ってみたり。ひょっとしたらあの事故でぼくは死んでいたかもしれないんだ、あの地震で死んでいたかもしれないんだ、と哀しさを知っている人は放言しないと思います、ただ、自分の中に閉じ込めておき、卑屈にならずに暗くならずに生きていくことでしょう。それこそ、「神様なんてくそくらえ」という妹のセリフそのままに、自分を信じると同時に大切な人も信じて。
 そして、海に花束を投げようとするリチオに「ゴミを投げたらあかんやないけ」と注意する釣り人の無表情。善意をしたと思っているこの釣り人は、その後どうしたでしょうか。家で妻に・会社で同僚に、先日こんな不届きな若者がいた、と息巻いて真理だと盲信している自分の価値観を吹聴したかもしれません。価値観です、姉の死に責任を感じている妹の辛さ・他人を受け付けたくない辛さ、そういう恋人の妹をそっと受け入れられるリチオの寛容な抱擁に、価値観という偏見はないような気がします。
 チャットでこんな人に出くわしました。なにやら興奮気味に観たばかりの映画を人々に勧める人です。ビデオで観たのだろうと私は悟り、映画館で観て欲しかった、というケチを少々からかうように発言したところ、その人は当初「考え方は人それぞれだから」と一見寛容な態度で私に応じていましたが、「映画館で観ようがビデオで観ようがどっちでもいいだろう」と不愉快になり始め、私は怒らせてしまった申し訳なさと同時にもっとからかってやろうという邪心がせめぎ合った結果、「かわいそうに」と映画館でその映画を観なかったことを嘆いたのです。その人の憤激はいよいよつまらぬ誹謗に及んで、なにやら私はとんでもない悪者にされて「自分の価値観を人に押し付けるな」といわれて「釣り人」を思い出したのです。私は心底気の毒に思いました、その人は「自分の価値観を人に押し付けるな」という価値観を私に押しつけたことに気付かず、「考え方は人それぞれ」という当初の発言との矛盾にも気付かず、きっと「チャットでこんなバカに会った」と吹聴しているのでしょうか。一方、そのチャットでは他に数十人の傍観者がいました。神様よろしく私とその人のやりとりを観察していたのでしょうか、それこそ「くそくらえ」といってやりたいです。
 生きてることをラッキーだと思った、というリチオ。決して不遜な特別意識ではない人生に対する率直な感想です。立ち入り禁止の公園の芝生にゴミが落ちていました、拾いますか、そのままにしておきますか。拾おうとして「こら、立ち入り禁止の文字が読めんのか」と注意されたら、哀しいですよね。でも、「ごみんに」と余裕でいられる姿勢を持っていれば、どんな哀しみにも寛大に微笑んでいられるでしょう、たとえウンコを踏んでも。

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