泡日

有学書林「泡日」より

高浜寛



 地が真っ黒でコマが浮いているような感覚だった。なんか変な臭いして、面白く読んでいながらも息苦しい。インクの臭いなんだろうけど、頁をめくるたびに仄かに揺れる空気に顔をしかめてしまった。それも含めて、奇妙な味わいが全編に漂っている作品が高浜寛「泡日」、80頁に満たない短編である。
 実際に物語の発端は臭そうである。汚い池で倒れたところを発見された主人公の悦子、彼女が運ばれた先が特養老人ホームで、そこから奇跡のような・奇跡でないような、微妙にばかばかしい人間模様が展開される。発見したのが介護を要する老人・飯塚さんで、冒頭は彼の疾走場面だ。常に読者の期待を紙一重でかわすような感じの物語なんだけど、それが初っ端からあるわけで、この奇妙な感覚ったらたちまち物語に引きずり込もうとする。飯塚さんは走るどころか歩くこともままならないんだから、そりゃもう介護士どころかホームの院長も仰天してしまう、まずこの表情に戸惑うわけである。外で起きた異変(倒れている悦子)と内の異変(飯塚さん疾走)が同居した瞬間を時間差をずらして読者に伝えてしまうんだから、こっちも驚いた。
 「泡日」を含むほかの短編を読んだ印象として、読者の意識・期待を微妙にずらすのが上手いなと感じた。「我らの世代が生きのびる道を教えよ!」では4人の男女が世間話をしているんだけど、皆がバラバラな話をだらだらしている描写にもかかわらず、その場面の錯綜する台詞が実に丁寧に整理されているから、混乱なく彼らの台詞・今誰がどの話題をしているのかってのがきっちり把握できるのである。複数の登場人物が現れると、本旨から外れたことを話している人物の台詞はふきだしのない手書き文字だったり、わいわいがやがやと省略されたりするけど、それがないのだ。皆がその場で起きている物語の状況を把握して演技している、つまり作者がそれぞれの役者の設定を捉えているからこそ出来る描写だ。もちろん読者を惑わせない構図も必要なわけで。
 つまり人物の描写力が侮れないのである。56頁の院長と美枝子の態度の差とか、人の話を聞いているときの彼らの表情とか、看護士(介護福祉士?)の「建前っしょ」「常に人は足りてませんから」と言った冷たい感情とか関根さんとか。わずかな出番の人物にも癖があって手を抜いていないのだ。プロだねー。
 さてしかし、この人物描写への配慮・気遣いがまた微妙なのである。作者にとっては当たり前の事柄だとしても読者ははじめて読む訳だから、説明がどうしてもいるのだが、物語の構成の切れが良過ぎて・あるいは半端と言おうか、先走った描きこみが目立つのである。もっとも、作品の面白さにはさしたる影響がないんだけど。多分、言いたいことを全部描くために省ける描写は徹底的に省いているのかもしれない。31頁2コマ目、ホテルのトイレで「つっぱり桃太郎」を読む悦子、同頁5コマ目の背景のホワイトボード・連日ゴルフの専務あたりはご愛嬌みたいなものだけど、たとえばいきなり親しげに主人公を「えっちゃん」と呼ぶ院長、斜に構えた看護士も読者によっては嫌らしい存在だろうし、世間話が高じて男女論みたいな展開にまでいったり、なんか中途半端と感じて、面白いんだけどずっと何か足りないなー・ちょっと冷たすぎやしないかなーといった感覚が引っかかり続けていたんである(切れの良さの例なら20頁5コマ目かな、ここでおそらく吐いたんだよね、そして服を洗うために着替え、洗った服はハンガーに掛け(21頁3コマ目)、40頁3コマ目「その服まだ乾いてないんじゃない?」という流れ)。
 全体的には冷たい演出なんだ。というのも、画像を加工してあって、全てに霞がかったような、ちょっと古いフィルムを見ているような印象なのである。しかも静かすぎる、劇中の台詞を含めたあらゆる音が映像に合わせて作られているような表現なのである。擬音がないのね、基本的に。音はふきだしで囲んであり、画面から飛び出してくるような力強さがないわけ。
 でも、そういう邪念が54・5頁で一気に吹き飛んでしまった。衝撃だね、肩透かしを思いっきり食らったような衝撃。画面に読者の期待をぐいっと引っ張っておいて、「ぶへくしっ」とひと払いしてしまう。奇妙なずれの正体がここで明かされるわけだ。これが目的だったのかもしれないと合点する。で、まだ肩透かし攻撃を畳み掛けてくるのだから驚く。次は伏線の消化とも合致していて、しかも冒頭の山稜を縁取った白っぽい線はこれだったのかと、読者側にまで張らされた伏線(というには大仰なので、普通に前置きと言い換えておく)をも巻き込んだ68・9頁の見開きの破壊力、すっ転びそうな勢いがあった。
 これは是非とも読んで確かめてほしい場面だ。

戻る