「ベイビーステップ」14巻

敗者の視線

講談社 少年マガジンコミックス 14巻

勝木光



 絶対に負けられない戦いがそこにあるってどこかで聞いたことがある惹句だけど、勝木光のテニス漫画「ベイビーステップ」の主人公・丸尾栄一郎は、まさにそんな状況で神奈川県ジュニア大会に臨んでいた。全ての試合が背水の陣という悲壮感すらどこかに漂わせた試合の連続に、一読者として、どうせ勝つんだろうなという卑屈さが脳裏の片隅にありながらも、ワクワクしながら読んでいたものである。だから14巻なのだ。未読の方には申し訳ないが、13巻から続いていた荒谷との大会決勝戦は14巻で決着が付く。それは私の予想外の結果であった。丸尾は敗れるのである。
 第1セットと第2セットをともに取り合ってのファイナルセット。丸尾は巧みなボールコントロールと緩急自在のショットで自分のペースを組み立ててポイントを積み重ねていく技巧派、対する荒谷は高校生離れした身体能力を前面に押し出していく力戦派である。丸尾の細かな解説が荒谷との戦い方を読者に指し示し、そのとおりにポイントを重ねていく描写に丸尾の強さを確かめ堅実なものとしていく。一歩一歩、少しずつ勝利に向かっていく丸尾のプレイスタイルは、荒谷の台詞を借りれば、「つかみどころのねえ」テニスであり、相手を翻弄してはじめて真価を発揮するといってもいい。つまり、丸尾が何を考えて打ってくるのかを相手が考えれば考えるほどに、丸尾のペースになっていく、そんなテニスでもある。だが、荒谷は丸尾を圧倒するパワーだけでもって、細かなことは考えずに戦う方法を選択した。この二人のスタイルの差は、長期戦になればなるほど、はっきりしていった。
 丸尾が負けるかもしれない、という予感は、試合を客観的に解説する立場を担っている丸尾のコーチ・青井の言葉によって真実味を増していった。スコア上では互いにほとんどブレイクを許さず、サービスキープをして共に自分のペースを維持しているように思えたけれども、青井が呟く懸念の数々は、一読者の私にあった、どうせ最後には勝つんだろうという甘い感覚を突き崩していったのである。
 体力の差が敗因のひとつだったわけだが、本作ではいくつかの描写によって、丸尾の敗色を濃くしていった。荒谷が丸尾のコントロールされた際どいボールを鋭く打ち返す場面が増え、サービスをキープするのが「やっと取れた」と丸尾が思うほど困難になっていくわけだが、それよりも丸尾を体力的に蝕んだものが思考力の低下であった。
 スポーツのワンシーンはほんの一瞬の出来事である。本作の丸尾は、そのひとつのプレーにも多くの戦略上の理由が存在し、結果を出すための技術的な根拠も丁寧に描写してくれる。だから彼がなぜ勝ったのか・負けたのかが、とても解説しやすい作りになっている。さてしかし、自分より格上の相手と戦う場合を想定したとき、そこには戦略だけでは補いきれない何かが必要になってくる。精神面であり、火事場の馬鹿力のような、マンガならばあっても不思議でない、主人公特権の底知れぬパワーだっていい。だが、本作はそれを拒否した。丸尾に足りないものは何かをまざまざと見せ付ける敗戦を描くことで、次に主人公が目指すべき道筋が見えてくるわけであるが、荒谷戦で丸尾の描写はどう変化していったのかがよくわかる指標が、丸尾の眼の描写だった。
 疲れたキャラクターの眼の描き方は、半開きだったり焦点が定まっていなかったりと想像できる範囲でおさまるわけだが、そういった描き方をすると共に、頭をフル回転させる丸尾の場合は、眼の輝きを少しずつ失っていくことで、意識できないところで身体が疲弊していく様子を描いていく。
 丸尾の眼の特徴は、眼の輪郭いっぱいに縦長の楕円上の黒目があり、黒目は太く縁取られ虹彩を表すトーンと、黒目の中心は瞳孔の黒い丸がある。さらに光の反射が常に眼の読者からみて左上に白丸で配されている。これは、この作品の多くのキャラクターに共通していて、丸尾だけが特別ではないが、彼の場合は、殊更眼が大きく描かれており、黒目はほとんど眼の輪郭の中に収まって描かれることが多いので、他のキャラクターにたまにある睨みつける眼(眼をやや細めるために黒目の一部が輪郭に隠されて眼全体が鋭角になる)というものがほとんど描写されない。このことから、丸尾は対戦相手に対して、敵意・戦意を剥き出しにする、というような描写がほとんどされないことになる。丸尾の優しい性格がよく現れていると言えるだろう。
 一方、荒谷の目は全体的に鋭く細い。黒目も小さく、虹彩や瞳孔の違いも描かれず、小さな黒い丸が置かれているに過ぎない(アップになったときは、その小さな黒目の中にも虹彩と瞳孔が描かれる傾向がある)。荒谷のプレイスタイルに相応しい眼だ。この両極端な描かれ方が、丸尾の変化をより強調させたといえる。
 青井コーチは荒谷戦の前に語った。「お前が自分の意思で感覚的にテニスができるようになればいいのに」。荒谷戦で浮き彫りになったのは、体力の差だけでなく、感覚でプレイする時間の差の表れでもあった。試合終盤、丸尾の体力は限界を超えて勝敗が明らかになりつつあった刹那、丸尾の眼が鋭くなった。大きな息をひとつ吐く。まるで荒谷のサーブ直前の表情に、彼はなるのである(14巻91頁)。
 サービスエースを決めた後の丸尾の眼は、黒目は大きなままだが、虹彩も瞳孔もトーンと斜線で大雑把に描きつぶされたような曖昧な視線になった。「サーブは…考えなくても打てるんだ…」。
 だがしかし、丸尾の新たなステップアップへの端緒を描いたところで試合は終了する。体力の差はいかんともしがたく、荒谷の冷静な対応によって丸尾は敗れ去った。握手をして試合を締める二人、荒谷は丸尾に回りを見ろよと促した。ページをめくると、見開きいっぱいの観客の声援が二人を包むのである(ちょっと泣きそうになった)。結果的に、周囲に目を配るほどに荒谷は余裕のあるプレイをし、荒谷だけに集中していた丸尾の余裕のなさが描かれているわけなんだけれども、ここは素直に二人の熱戦に拍手を送りたい。そして、主人公の敗戦という意想外の展開の中でテニスの面白さを描ききってしまう勝木光の筆裁きに敬意を表したい。
(2010.10.23)

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