阿部共実「ちーちゃんはちょっと足りない」

ここを過ぎて悲しみのマチ

少年チャンピオンコミックスEXTRA MOTTO! 秋田書店



 傑作文学である。
 その前に、漫画を文学的と評するときに注意しなければならない点がある。小説は漫画より高尚なものという先入観である。誰もが抱きやすい持論あるいは世間一般には当然のこととして受け入れられている前提を排しなければ、漫画を評価することなんて出来ない。
 阿部共実「ちーちゃんはちょっと足りない」に冠せられるであろう文学的と言う評価にも細心の注意が必要だ。この作品で語られる主人公の内語は確かに文学的であるが、それはこの作品が小説に匹敵するという意味ではない。小説とか何やらとか表現媒体に依存しない、作品そのものに文学的な躍動感があるのである。
 というような前置きを書いたのも、私のこの作品の感想がとかく文学的である点を強調してしまう結果になることを憂うからである。単刀直入に言えば、「ちーちゃんはちょっと足りない」を読んで、太宰治「人間失格」をすぐに思い出したからである。
 若い頃に何度か読み親しんだ「人間失格」について今更あらすじを述べるまでもないが、簡単に言えば、女性にモテてモテて困っちゃう自虐癖ナルシストが果てに自殺願望に陥って結局なんだかんだ言いながら女が好きという話である(あれ?なんか違う?)。要するに、私にとってむかつく主人公でありながらも、作品自体は面白く読めたというわけなんだが、「ちーちゃん」の主人公であるナツとちーちゃんの関係は、「人間失格」の中学時代の話である葉蔵と竹一を想起したからである。
 葉蔵の中学時代は、道化を演じてクラスの人気者になりながら、そういうポジションに立たざるを得ない自分に酔いしれているのだが、そんな彼の本心を見破ってしまうのが白痴っぽい同級生の竹一だった。体育の授業で鉄棒の練習に臨んでいる最中、葉蔵は故意に大げさに失敗する。
「果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
  「ワザ。ワザ」
  自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。   それからの日々の、自分の不安と恐怖。」
 その後、葉蔵は竹一がクラスにこのことを言いふらしてしまうのではないかと不安になり、竹一を篭絡せしめ、親友と言う虚構を構築し、恐怖から解放されることになる。
 「ちーちゃん」を読んでいれば、葉蔵の不安が、ナツのある不安と似たようなものであることを理解できるだろう。自分よりも頭も悪く幼稚で魯鈍、そんなちーちゃんに自分の悪事がばれてしまうのではないか。物語の後半からはじまるナツの自家撞着は、葉蔵の能天気な自虐妄想とは違うし種類も異なるし墜ちていく経緯にも救いがない。ラストで住宅街を歩く二人のカットに漂う閉塞感なんて葉蔵のそれとは比べられるものではないだろう。
 というわけで、改めて述べよう。阿部共実「ちーちゃんはちょっと足りない」は傑作文学である。
 中学二年生のちーちゃんは、最近になってやっと九九がどうにか覚えられた程度の知能で、幼児に大人気のキャラクターに夢中な女の子である。幼馴染で同じ団地に住んでいるナツや、近所の友達・旭と毎日登下校をともにする仲良し三人だった。さてしかし、物語はちーちゃんを主人公に据えていると思いきや、モノローグや内語はナツだけであり、ナツの言葉が物語の大半を占めていくようになる。ちーちゃんや旭ほか、クラスメイトたちの心中が描かれることはなく、表面のセリフや表情から彼らの心意を汲み取っていくわけだが、ナツの自己嫌悪の増幅は、彼らのどうとでもない言動そのものをネガティブな思考に陥らせるきっかけにもなっている。心が通い合ったと思っているちーちゃんの心意さえ不明であリ、その根拠は薄弱である。ナツの自我崩壊の物語であり、その始まりを告げる発端でもある。今後の彼女の人生は、葉蔵よりも暗澹としているに違いない。
 ところで漫画であるからして、そうした面でもこの作品は存分に表現力を発揮している。
 物語を支える土台となっている舞台は神戸という現実世界である。どこかにあるどこかの街並みではなく、実際の神戸の垂水周辺が主要舞台だと思われる。ジャスコやセンター街も垂水駅付近にあり、実際の街並みを背景から確認することも出来る。2話でちーちゃんと姉の志穂が買物をするジョスコの概観はイオン垂水店(イオンのロゴをJOSCOに変えたり、KONAMIをKONOMIに変えたり)であり、8話でナツが旭や藤岡たちを見つける場所は、垂水駅近くの垂水センター街であり、クッキー工場は昭栄堂製菓だ。建物の描写もキャラクターと齟齬が生じない程度に緻密で描き込みが多く、自我の崩壊していく表現としてのキャラクターの線画の荒々しさとの対比で、ナツのそれが一層強調されている。同時に周囲の建物まで荒々しく描かれれば、ナツの世界観の崩壊までも一瞬にして表現してしまう。阿部共実の表情に富んだキャラクター造形は、背景にも感情があるかのようにキャラクターの心情を反映している。
 もちろん、こうした表現にはそれなりの下準備が施されている。例えば影を見てみよう。
 32頁は廊下でナツ、ちーちゃん、奥島、如月の四人が会話する場面である。廊下の壁に薄く映された四人の影がキャラクター然とフキダシを与えられている。次からコマには黒板、机、天井がそれぞれ描かれ、四人が廊下から教室に入り、黒板の前を通り過ぎて机の椅子に座ったという流れが読める。
 影から景色に場面(コマ)の絵を変えつつ、場面移動を会話でつなぐ演出は、作者の得意とするところであり、随所で確認できる。ナツがちーちゃんからお金をもらうところでも用いられたこの演出は、物理的な移動ではなく、思考の移動・考えがぐるぐるする様に応用されている。自我崩壊の具体的な始まりでもあるこの場面では、「あげる!」と、ちーちゃんが差し出した千円札に瞠目するナツ、続けて影の場面となる。
 この影は前述の影とは異なった印象を与える。キャラクターそのものが影となって真っ黒に塗りつぶされたのか、あるいは本当に廊下の壁に映された影なのか、判断に迷う。だがページを捲ると、それがナツ本人の自意識を表象したものであることがわかる。歪んでいく良心は、海辺で笑顔ではしゃいでいるナツとちーちゃんという、ナツが考える楽しそうなものの空想図(海外旅行と飛行機、ゲーム機、カメラなどなど。特に飛行機に注目してほしい)に満たされ、最後は、校舎の一部を描き、ナツの内語を被らせた。 「私たちは 世界で一番 美しくない2人だな」
 しかし、本当に美しくないのは、ナツ一人だった。
 上に大きく開けた5話の最後のコマ、廊下→校舎と飛び出して羽ばたいたかのように見えるナツの空想だが、彼女のそれは、すぐ現実に引き戻された。6話冒頭の団地の概観絵と、次の室内で寝ているナツの内語は、自分の不幸な生まれという境遇が悪事を許してくれるという言い訳に至り、彼女の影はどんどんと歪んでいくのだ。
 歪みきった影は、彼女の楽しい空想の場面さえも奈落に落とし込む。悪事がちーちゃんによってばれたのではないか? おそらく友達の旭は気付いただろうが、ちーちゃんの友達想いに免じて許されていた。だがナツは一人堕ちていく。かつて海外旅行を羨み、その象徴の一つとして楽しい空想の一部を担っていた飛行機が、「キィィィィン」という嫌な音を立ててナツに迫ってくるのである。
 物語の終盤に畳み掛けられるナツの自己弁護と反省の繰り返しは、今後も彼女がこうした思考を続けていくだけで、まるで成長しない将来を容易に想像させる。
「どうせ 私だけが クズですよ」
「私はクズだ」
「私は何もしない ただの静かな クズだ」
 ちーちゃんは少しずつではあるが成長していた。バスと電車を乗り継いで一人でキャラクターショーを見に行き、盗んだお金を返すためと少しでも節約しようと帰りは歩いて帰ってくる。
 ラストカットはただの閉塞感ではない。この道は団地に繋がっている。家に帰る、という暗さ。旭が家を出て街で遊び仲間を増やしていくのとは対照的に、ナツは家に篭り家で退屈をしのぐ。彼女の部屋の散らかりようが彼女の正体だ、欲しいものをたくさん家の中に引き込みたいけど、家の中に入れたら大切にするわけではない。ちーちゃんを巻き込み、彼女はさらに家に閉じこもってしまうだろう。
「友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へ。ああ、友はむなしく顏をそむける。友よ、僕に問へ。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。もつと言はうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。」
 ああ、頼むから、ナツよ。どうか一人で死んでくれ。
※引用は、太宰治「人間失格」「道化の華」から。
(2014.6.2)

戻る