「度胸星」

小学館ヤングサンデーコミックス全4巻

山田芳裕



 山田芳裕が1990年から講談社「コミックモーニング パーティ増刊」で約一年連載した「しわあせ」は2033年を舞台にした平和な世界の物語である。主人公は70代のじいさんだが、それは別として月旅行を描いた「うちゅうりょこう」の巻という話から、当時すでに宇宙に対して作者が興味を持ち同時によく理解していたことがうかがえる。月へ向かうシャトル内の描写は、無重力世界の様子を忠実に再現し、登場人物に上下の区別をつけさせないだけでなく、飛び散る汗にまで無重量状態を表現させており、細かな演出の数々から作者の取材力と表現力の知的ぶりが実感できた。また、「ウルトラ伴」(双葉社アクションコミックス「木田」収載)という短編では、四次元星人なるものが登場し、三次元空間で四次元の物体がどのように振舞うか実験していて、作者の想像力に感嘆する。
 そして私は、再び山田芳裕の宇宙表現を目の当たりにし、震撼した。テセラックである。宇宙には地球の人間に想像できない高次元のなにかが存在する、という大胆な発想(SF小説では普通らしいが)は、SFに疎い私でも知的好奇心をくすぐられ、物語の重量感・それは立体的演出にこだわりつづけた作者がついに到達した高次元の演出であり、すなわち高次元のストーリー展開という離れ業に、ただただ圧倒されつづけながら体感できた「漫画を読むことの至福」という漫画体験の原点をも含んだ、平たく言えば大冒険ロマンに心が踊ったわけだ。そんな感動は連載中止という憂き目に遭って打ち捨てられてしまい、物語の今後の展開はQ方向へ飛んでいってしまったため、私は劇中の筑前よろしく何がなんでも解明してやらなきゃ気が済まない使命感に酔って、謎が明かされることなく終了した「度胸星」について個人的な決着をつけるとともに、この作品と作者への感謝の言葉にしたいと思う。

 冷戦の最中、旧ソ連は1982年から約二年半、カスプチン・ヤール宇宙基地で四回にわたって打ち上げ実験を行っている。それは西側諸国の一部に新兵器の開発ではないかという疑念を生じさせだが、問題視されなかった。というのも、当時アメリカに対抗してソ連がスペースシャトル開発を行っていることは公然の秘密だったからである。結局、この実験(小型スペースシャトルの開発)は実を結ぶことなく失敗して宇宙開発の歴史にほとんど刻まれることはなく消え去ろうとしている。それから幾十年、「度胸星」四巻ラスト、同じ場所で、度胸ら4人の飛行士が搭乗した有人火星探査ロケットは、公然の秘密どころかまことにひっそりと、アメリカをはじめとしてほとんどの国に知られることなく打ち上げられようとしていた……
 そのロシアが生んだ「宇宙旅行の父」C・E・ツィオルコフスキーはこう語る、「人間はいつまでも地球にへばりついてはいない。光と空間を求めて、人類はまず大気圏外におずおずと顔をだすだろう。そしてやがては太陽の周りの全ての宇宙空間をわがものとするであろう」と。なんという希望に満ちた言葉だろうか、人間の科学力を信じた彼は9歳で失聴、以後静寂のなかで黙々と研究を続けて現在実現されている宇宙航空技術を理論上で完成させていたのだから、いずれその希望さえ可能になるような気がしてならない。
 ツィオルコフスキーは1880年代、無重量状態の世界で何が起こるかを考察した「自由空間」という論文を発表した。それと同じ頃、イギリスのロンドン市内の学校の牧師・教師であるエドウィン・A・アボットが奇妙な小説を発表している、「フラットランド(多次元・平面国)」である。時が経つほどに価値が増し評価は高まる一方だというこの小説は、次元というものについて深い洞察を与えてくれるのだ。
 この小説と「度胸星」に一体いかなる接点があるのか? 物理学や数学、特に幾何学に詳しい人ならば、テセラックという謎の物体が何を表しているかいろいろと思い巡らせられようし、連載中から作品が時間を除いた空間としての四次元ひいては高次元について何かしら語ろうとしている予想は実際になされていた。まるで幼い子供がつま先で蟻を弄ぶような振る舞いをスチュアートにするテセラックとの交信には、茶々の能力・テレパシーが役立つだろう、坂井輪教授は物語の解説者として度胸たちの行動を導いてくれたかもしれない等など、劇中から察することが出来る火星での展開が、期待を膨らませた。
 「度胸星」の肝は高次元である。終盤、急ぎ足でブロンソンと坂井輪教授によって語られるテセラックの解説や高次元の存在を示唆する超ひも理論(この理論は、宇宙は最初10次元であった、という発想を前提にしている)が、「度胸星」という作品の価値を決定付ける材料になるはずだったが、それらは劇中具体的な形で結び付けられることなく霧散し、物語の行方そのものがQ方向に隠れてしまった。「フラットランド」は、その行方の先鞭となる作品なのである。まさにQ方向を探る指標! そして、坂井輪「人間が飛躍するのには何が必要なのか」、筑前「テセラックは俺達を栄光へ導く獲物っす」の意味するところも断定は出来ないが、想像することは出来るのである。その作業は、実際に私達が高次元を想像しようとしてもできないくらいに困難ではあるが、同時に筑前の名文句「これが宇宙か……」という言葉そのものを知らず知らず呟いてしまうかもしれない昂揚感を伴う類推になるだろう。
「フラットランド」は二次元の世界の物語である。主人公・スクウェア(正方形)氏の口を借りて語られる内容は、作品が書かれた背景・19世紀英国ヴィクトリア朝への批判をにじませているものの、私たちが住む三次元について多くの考察を促してくれる優れたSF小説としての価値がある。二部構成の物語で、第一部でフラットランドの社会や歴史を解説しながら二次元の世界がいかなる世界かをわかりやすく知らしめてくれる。「度胸星」を考える上で重要なのは第二部だ、次元の考察である。それはスクウェア氏の前に現れたスフィア(球)氏とのやりとりで明らかにされる。つまり、スチュアートや筑前たち三次元の人間の前にテセラック・四次元の物体が現れた、ということである。
 三次元に四次元の物体が現れるということは、第45話と最終話でブロンソンの紙人間の例で示される。テセラックの一部しか見えないのだから、見えない部分によって何かされてしまう描写も数多く見られる。たとえば第9話、テセラックはビンの中に入ったりモジュールの中から消える、これはフラットランドにスフィア氏が現れたところの場面を考えるとわかりやすいだろう。ある平面に球が降下するとして、球が平面に触れた瞬間は平面に映されるのは点である。球はどこからどう切っても断面は円だから、平面に埋まって降下を続けても平面に映るのは円のみ、下降し続ければだんだん円は大きくなり転じて小さくなって点になり、消えるだろう。テセラックが三次元で大きさを自在に変えるわけもこれで想像できるはずだ。(なお、「度胸星」では何故四次元球ではなく四次元立方体(テセラック)なのか、という素朴な疑問も湧く。四次元球は三次元空間に現れたとしても、球の断面が円であるように四次元球の「断面」が球であるため、大きさが様々な球を描くしかない、つまり漫画の表現としてつまらないという作者の判断からだろうか。)また、第27話では、テセラックがモジュールを破壊する。距離が関係ない、というのを如実に示す描写とともに見逃せないのが、擬似四次元とも言える視点を読者に与える構成である。冒頭で触れた高次元の演出の一端だ、3巻89頁1コマ目でモジュールとテセラックの位置関係を描き、3コマ目で真横から遠景、次に驚愕するスチュアートの全身像にいきなり視点が寄って次はまた遠景、テセラックが移動したと思いきや90頁・91頁の展開となる。景色には遠近感を表さなければならないが、テセラックにはその必要がない。錯覚を利用した絵(降りているのか上っているのかわからない階段など)を見たことがあるだろう、遠近感あるものの中でそれを表現するには、絵はもってこいだ。さらに89頁下段の遠近感を無視した3コマの配置に見られる漫画表現上での錯覚を作者は実現してしまったのだから感嘆する。
 ところで、三次元の住人にとってどうすることもできないテセラックの行動を作者はいかにまとめようとしていたのか? スチュアートの攻撃に動じない(最後に色が変わるが、これが何なのかはわからない)テセラックと、度胸たちのあいだでいかなるやり取りが行われたのだろうか。スフィア氏は自分が「三次元」の存在であることをスクウェア氏に説いて聞かせるが、「二次元」的思考では到底理解できない。「私はあなたの上からやってきたのです」と言っても、「上」がどの方向にあるのかわからない。埒が明かない会話にスフィア氏はスクウェア氏を上に持ち上げる、三次元に連れていくのである。「度胸星」でもそのような展開は考えられようが、果たしてそれが作品にとって魅力ある物語になるか疑問である。なにより迫力ある場面が得られるかどうか。作者の技量なら読者があっと驚く表現をやってのけるかもしれないが、物語の緊迫感自体を損なうのではないか・つまりあまりに荒唐無稽という感が否めないのである。それは私たちが四次元を思い描くことが出来ないからであるけれども、漫画として果たして成功するのか、非常に不安である。それまでのアクション場面から一転して観念的な・哲学的な展開に至る可能性があるわけで、読者はついてこられるのだろうか。作者自身の言葉がない故にあまりに不毛な想像だが、三次元の世界を知ったスクウェア氏をときに見てみよう。
 スクウェア氏は二次元世界の全てを見る、本当に何もかも見てしまう、知ってしまう。スフィア氏は言う、「これは新しい認識、つまり三次元です」。火星で度胸たちが得るもの、筑前が言うところの獲物は四次元的思考・認識だろう。人知の及ばない知識を手にし地球へ帰還するのだろう。それが人類の飛躍を促し、人類にとって何が大事なのかを認識させるのだろう。
 さてしかし、フラットランドに戻ったスクウェア氏の認識は二次元世界の人々に理解されず、果ては異端者として終身刑に処せられてしまう。「度胸星」終盤の物悲しさが漂う展開と重なってしまった。大統領の火星探査計画は中止になり、度胸たちの立場は宙に浮き、筑前たちは見捨てられる。新しい認識を理解しようとせずに現状に満足する態度は、ポイントランド・0次元世界の住人そのものである。自分こそ世界であり、世界こそ自分であると謳うポイントランドの住人・点は、自身がいかに貧しい存在であるかを認識できず、ひたすら自画自賛している、まさに地球にへばりつづける人間だ、スクウェア氏は呆れて曰く「この無知なポイントランドの王様に、自分は全知全能であると喜ばせておきましょう。彼を自己満足から救い出すことは、私にもあなたにもできることではありません」
 そんな諦観に充ちた状況の中で、それぞれが「栄光なき出発」をする。ブラッドレーを救うべくローバーに乗り込んだ筑前と石田のなんともいえない表情、火星ロケットに乗り込んだ度胸ら四人の立場……新たな次元を理解しない態度によって砕かれた結果なのか。三次元の世界に吸いつかれた人々とは、すなわち想像力を放棄した人々に他ならない。私たちはフラットランドを上から眺めるのと同様に私たちの世界を眺めることは出来ない、私たちは三次元に囚われているのである。ポイントランドの王様よろしく私たちもこの世界が全てであると錯覚し、誤謬し、想像力を放擲し自己満足しているのである。しかし、高次元を意識した瞬間、私たちに想像力があるならば、たちまち畏れるべき存在に気付くはずである。四次元を意識したならば、続けて五次元、六次元、七次元……果ては無限次元に辿りつくのだ。すなわち、私たちは、世界のあらゆる現象は・あらゆる存在は、無限次元に内包されているということ。この宇宙さえも、無限次元=本当の宇宙のほんの一部なのである。筑前の言葉を繰り返そう、「これが宇宙か……」

(主な参考文献■エドウィン・A・アボット「フラットランド(多次元★平面国)」石崎阿砂子・江頭満壽子訳 東京図書 1992■ルディ・ラッカー「四次元の冒険」金子務監訳・竹沢攻一訳 工作舎 1989■クリフォード・A・ピックオーバー「ハイパースペース・サーフィン」河合宏樹訳 ニュートンプレス 2000■的川泰宣「宇宙に取り憑かれた男たち」講談社+α新書 2000)

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