「栄光なき天才たち」

集英社より全17巻。他に文庫版もあり。

作者 森田信吾(一部の原作を伊藤智義)



 森田信吾の作品は気合が滲んでいます。アクション場面は人物の動きを過剰に迫力ある描写にしてしまうあまりどこかぎこちなく頼りないし、背景の前に立つ人物の絵はどこまでも図々しい感じです。森田自身の興味が人間にしかないのでしょう、手抜きなんて一切ない人間の描写は小細工なしの直球勝負、そして描かれる幾多の天才たちもそれに相応しく長所も短所もひっくるめて一個の人間として自立した人生を持っていました。有名無名関係なく、森田と原作者・伊藤智義に「人間」と認められた天才たちの生き様は、一言で述べるならば、国家との壮絶な戦いの記録なのです。
 ベルに敗れた電話発明家・グレイや、数学史を彩る二人の若き天才のガロアとアーベルといった、当時の世間に認められず歴史に埋もれた著名な天才たちの物語がある一方で、森田と伊藤は国家に葬られた人々を掬い上げます。典型的な例がスポーツ選手です。国家のため、と旗幟を背負った圧力の中で、勝たねばならないという彼らの使命は悲劇としかいいようがありません。その好例が円谷幸吉と佐藤次郎です。
 円谷幸吉といえば東京オリンピックの男子マラソン三位入賞で日本中を湧かせたヒーローでした。続くメキシコオリンピックでメダル獲得を大いに期待された果てに彼は自殺します。佐藤次郎も同様です。戦前のテニスプレイヤーで世界ランキング三位にまで登りながら、国の名誉を賭けた国別対抗戦・デビスカップに翻弄され、やはり自殺しました。二人の共通点は、いずれも婚約発表後に訪れる国による圧力でした。結婚より国の名誉を押しつけられた二人は自殺するほどまで追い込まれたわけです。たかがマラソン? たかがテニス? それは一つの才能もない凡人の言葉です。散々に他人の才能を食らい尽くして言いたい放題の国家という存在に対して不信感を抱かないほうがおかしい。今もなお行われるスポーツの世界大会で自国の活躍に熱狂するする人々の冷酷さを二人はすでに知っていました。川端康成に名文と称えられた円谷の遺書は、家族のみんなを思う気持ちに溢れたやさしい文章ですが、これを読んだ国家はなにを感じたのか? 人々はなにを感じたのか? 佐藤の自殺を聞いた酒場の男は羞恥なく酔った顔をさらして「あほやなあ、たかがテニスで」と言ってのけます。「そうや、たかがテニスや」と呟く佐藤の親友もまた徴兵されて戦死します。作者・森田信吾の筆は極太な印象を連載が進むにつれて究めていきますが、脚本はますます冷めて非情で感傷を廃したセリフを用意するようになります。伝説となった天才投手・沢村栄治の最後の場面。彼の死に方は実にあっけない描写で、死に際の言葉がありません。またこれ以外にも臨終の描写は意外に少なく、森田はほんとに生きているときの個人の姿にしか興味がないような感じさえします。
 実在の人物に劇的な物語を付加する卓抜さ(人物がもっとも輝いた季節ともっとも色あせた季節をくっきりと描きわけます。短編でははっきりしない技量ですが、長編では短編の遠慮した画面構成・コマ割がなく伸び伸びと筆を走らせています)は作品を読めば明らかですが、その構成方法は単純です。冒頭に人物の活躍した瞬間を描いてから、そこまでに至る人物の努力や苦悩とそこからの転落や失敗そして死を描きます。同じ構成を重ねながら、この作品が単調な印象を読者に与えないのは、やはり取り上げた「天才たち」の生涯に負うところが多いようです。彼ら天才の人生はそれだけで、奇妙な昂奮を読者に与えます。
 森田がもっとも興奮して描いたと思われるのが浮谷東次郎です。おそらく作者自身のヒーローと思われる「少年漫画の主人公」のような東次郎の生き方は、国家なんて眼中にない積極果敢で怖いもの知らずの勇者なのかもしれません。東次郎の著作を大胆に脚色して展開されるこの挿話は、本当にこれが日本人なのかと思わせるほど。15歳のときに東京大阪間をバイクで走りぬけたり、60年安保闘争で世の中が大騒ぎのときに単身渡米したり。帰国後彼はドライバーとしての真価を披瀝し、伝説の走りを人々の脳裡に刻んだのです。23歳で事故死した彼を評する言葉に「もしかしたら、日本人として最初のF1ドライバーになっていたかも・・・」があるくらいです。
 全編を通して森田の才が際立つのは、瞬間の切り取り方です。前半に集中する短編では、瞬間だけで終わっていて、わかりにくいのですが、中編以上のものになると、人物のもっとも印象的な場面を見開きで訴えかけてくれます。先の東次郎の物語では「人生に助走期間なんてないよ、あるのはいきなり本番の走りだけなんだ」という決めぜりふの場面、「宇宙を夢みた男たち」ではアポロ11号の発射場面で絶叫するフォン・ブラウンにダンテ「神曲」の一節を被せる場面、奇術師フーディーニではラストの妻の言葉「私たち人間って・・・一体何者?」の場面などなど、斜め読みさせない吸引力がこの作品にはあるのです。
 個人的に愉快だったのは名取洋之助です。「写真は芸術ではない」という言葉から始まるこの挿話は、世界的な報道写真家となった彼の決してひるまないわがままな生き方を気楽に描いています。被写体はあくまでも事実と主観であって、芸術性なんてこれっぽっちも求められない、写真の真のあり方を提示する一方で、またも国家と個人の関係を赤裸々にします。日中戦争勃発後に孤立した日本の中にあって、まるで西洋人のような個人主義を貫く彼の挙措(その振るまいを「白人のようだ」、と彼は言われます)は、集団社会の日本において、とてもお気楽な愛国心を育む結果になり、やがて彼が南京で目の当たりにした景色に森田は「国家は愛国者を裏切る」というナレーションを被せるのです。「国家となんて手を組むんじゃなかった」という彼のセリフが私には印象深いです。
 この作品を読むと、才能なんて簡単に潰せるんだなって思い入ります。自分にとって都合の悪いものを排斥する行為のなんておぞましいことでしょうか。脚光を浴びるのは、排斥する側の人々であり、世の中なにがほんとでなにが間違いなのか、判断の拠り所を忽ち失ってしまうのです。天才と呼ばれる人の影に真の天才がいるのかもしれません。

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