「富士山さんは思春期」1〜3巻

人形としてのカンバ視点

双葉社 アクションコミックス

オジロマコト




 身長181センチの中学二年生の女子バレー部のエース・富士山(ふじやま)の挙措がかわいいこの作品には常に違和感が付きまとっている。うん、富士山さんの可愛らしい表情や艶やかな肢体や豊満な躯体だけを見ているだけでも十分に楽しい。みんなに内緒で幼馴染の身長160センチの上場(かんば)と交際を始めたことから様々な彼女の姿を捉え続ける演出も面白い。彼女のいろいろを引き出し続ける存在として物語の主語を担う上場の活躍・彼の内面の言葉は冒頭から読者の代理然と機能してもいるだろう。けれども、何かしっくりこないのである。何故だろうか。
 本作の構図の多くを担っている上場の視点は、富士山さんをいろいろな角度から描く動機付けになっている。第1話の下乳から始まった上場の意識は、こっそり彼女を見る視点がそのまま読者自身にちょっとした罪悪感を植えつけながら、それでも上場同様にもっと彼女を見たいという欲望を引き出してもくれる。感情移入を促しているともいえよう。
 私が当初から感じていた違和の正体は、女性に萌える身体の一部を捉える作画に、単なる読者サービス的な物語上、大きな意味のないコマの数々にあると思っていた。まあ、それはそれで構わない、実際に彼女の姿を見ているだけでも恋愛に対する初々しさも含めて楽しいのだから。だが、2巻のバレー部合宿の話に及んだとき、はっきりと理解できた。この作品が真に萌えているのは、彼女をちらちら見ては彼女を愛おしく思う上場そのものだったからなのだ!(ホントかよ)
 大きな背中に顔をつけたり、神社で制服の下に着ていた水着を間近で見たり、金魚掬いで胸チラ見たり、上場の目撃する彼女は、思春期の少年を刺激するに十分に魅力的である。花火大会で富士山さんと偶然隣り合ったときに手が触れ合うドキドキも彼の内語が画面をリードした、「富士山の手が 触れてるんだけど… あれ 気付いてない?」。そうして手をつなぐ二人。ドクンドクンと緊張しまくりの上場が見上げた彼女の表情は恍惚とも幸福とも言える表情に満ちていた。
 そうして上場視点を中心とした物語はまた、彼に見られることを意識している富士山の意識をも引き出していた。彼のように物語の主語になりはしないが、読者サービスも兼ねたさまざまな構図は、上場が望んでいる視点とも捉えられよう。幼少時から巨大児だった彼女にとって、周囲から「大きな子ども」として奇異の目で見られることは日常だった。だからこそ彼女は、誰かの視点になる、ということに対して自覚でき、コマのひとつひとつがカメラのように彼女の姿を克明に捉えるし、その対象が上場だけだった時の彼女の表情は彼にしか見せない特別な顔のなのだ。
 ところが夏合宿の挿話で、視点だけに特化していた物語構造に綻びが見え始める。先生の目を盗んで女子部屋で遊んでいた上場を含む男子たちだったが、当然先生に見つかってさあ大変って展開に至る。ここで富士山は上場を自分の布団の中に引っ張り込んで隠そうとするわけだが、必然的に二人は密着して、花火以来のドキドキという緊張感が訪れた。……上場の「ヤバイ」という内語、そして富士山の胸に押しつぶされる。暗闇で互いの姿勢が識別できないというこじつけが可能かもしれないのだけれども、何故か、上場には少年ならばあるだろう生理現象が一切描写されない、回りくどい言い方をせず単刀直入に言えば、上場は勃起しないのだ。
 好きな子とこれほどくっつきながら彼は何故興奮しないのか。先生が去った後、恥ずかしそうに富士山は上場に背を向けるが、布団の中で誰にも見られないことを利用したのか、上場は背中から彼女を抱きしめる。大きな身体と暗さ故に彼自身がどこに腕を回しているのか判然としていないのだろうが、やがて手は彼女の胸にまで至るのである。触っているのが胸だとわからずとも、健全な中学二年生ならば、あってしかるべき現象がやはり描かれない。彼女に上場の腰が密着している場面も描かれながら、それを仄めかす演出がないのである。作者の性別をどうのこうの言う気は普段全くないのだけれども、ああ、この作者女性なんだなぁと悟った。Wikipediaを信じるならば、実際に女性らしい。本当にかわいく描こうとしているのは、富士山ではなく上場ではないのかと邪推してしまう。女の子にもてあそばれる理想の小さな男の子として。
 さてしかし、作者の性別はどうでもいいのだ。物語の展開上、二人の進展が描かれていくとなれば、身体の触れ合いはもっと描かれていくだろうし、ひょっとしたら上場の内語によって描かれなかった現象が恥ずかしさとともに演出される事だってあるかもしれない。そうしたとき、見られることをコマの構図に込めていた絵はどうなってしまうのだろうか。3巻51頁に、そのひとつの契機が描かれた。富士山が椅子にがに股で座っている大コマである。
 本来この構図は、椅子の前に同級生二人が机に付いており、上場から全身は見えない。だが、身体に直接触れることによって、上場の視線が彼女の全身の姿勢を捉えられる力を帯びた、というのはこじつけが過ぎるかもしれない。いずれにせよ、偶然性によって手が触れたり腕がくっつくことが多くて語られなかった肌の感覚、台風の日のびしょ濡れの雨宿りでは上場が能動的に彼女の体温を感じ取る場面が描かれ、見る・見られるという関係性が少しずつ変化し、私の違和感も消えていくだろう。
 これまで多くを明かされていない富士山さんの内面も、やがて上場の身体との触れ合いを通して描写されていくのかもしれない。
(2014.3.3)

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