「岳」第2巻

小学館 ビッグコミックス

石塚真一



 警察白書によると、平成10年から毎年山岳遭難件数は1000件を超えている。それに伴って死亡・行方不明者の数も増加、毎年200人以上の方が山に消える。石塚真一「岳」は、ボランティアで救助活動を行う男の物語である……というようなありがちな書き出しだが、いやまあ「岳」の第2巻がやっと出た。
 1巻の感想でも触れたが、遺体の扱いの軽さってもんが、山の厳しさを端的に表してて、それはまあ遺体はモノとして搬送しなきゃならなっていう決まりが象徴的で、遺体を発見→次のコマでヘリで吊り下げられて運ばれる遺体、という素っ気無さは作者の山に対する認識(主人公・三歩の認識と言ってもいいだろう)そのものである。三歩の姿は生きている者も死んだ者も、同じ山にやって来た同志として歓迎している様子がうかがえる。それは、自分もいつか山で死ぬかもしれない覚悟を持っているからだ。
 2巻第3歩「滑落」は、登山の過酷さをシンプルに描いた挿話である。ヨセミテのハーフドームという岸壁にソロで挑む三歩は現地でデイモンに出会う、彼も同じ岸壁に挑む若者だった。ここは散歩がいつもかぶっている帽子の由来が知れる話だが、それ以上に、ドラマ性を寄せ付けない現実に私は打ちのめされる。帽子を残し、先に上っていったデイモンの後を続いていく形となった三歩。残り二日のルートが一緒になるということは、読者にしても、主人公の上にはデイモンがいる、という意識がある。上を見上げる描写に、ひょっとしたらデイモンの小さな姿が描かれるかもしれない。そんな私の予想はあっさりと覆される。尿意を覚えて急いでそれを持ち上げ、どうにか事なきを得て安堵した直後に、散歩の直近を落下する荷物に、あっ彼も落ちてくるという予感が閃く。岸壁で再会したデイモンは、落ちてくる姿だった。だんだん小さくなって頂上に消える姿ではなく、大きくなっていく彼の背中だった。手を伸ばせば届いたかもしれない、だが三歩はロープにしがみついて震えた。小さくなって消えていくデイモンの姿を三歩はしっかりと見た。
 その出来事を回想する前に、三歩は遭難者の救出にあたっていた。クレバスみたいな裂け目の中で被救助者はすでに死亡、三歩が遺体を抱えて引き上げようとした刹那に、ともに捜索していた正人と久美の頭上から落石が発生する。石は幸い穴の淵に止まったが、あのまま落ちていたら三歩を直撃していたかもしれない。だが気にも留めずに救出活動を続ける三歩に久美が訊くと「危なかった」、久美「そんな他人事みたいに言って」、三歩「大丈夫」。根拠のない自信に見えた久美は釈然としないままだ。そこから三歩の帽子の由来話が始まる。
 落石とデイモンが同じだと言うわけではない。だが、たとえ助けられた可能性がほんのわずかあったとしても、巻き込まれて自分まで……否、一人の犠牲が二人になる可能性のほうが高いならば、三歩は迷わず多くの命が助かる道を選択しているに過ぎない。何故この話が「大丈夫」と言える根拠なのかは言葉で説明できないけれど、山岳救助という仕事に慣れてきた久美(この作品は彼女の成長も何気に描いている)にとっては、いや読者にとっても、多くの遺体と遭遇する・せざるをえないだけに、死や遺体(の描写)になれて鈍感になってしまいがちなところである。三歩も遺体を目の前にしても慌てることはない。だが三歩と久美(読者)には、表面は同じでもそこに至るまでの過程も心構えも違い、とても埋め合わせることが出来ない山のように峻厳な精神力の差があった。同じ体験をしようとしたって無理だろう。だから三歩は生き抜けたら語るのである。時にはむごたらしい出来事もあるだろう、だが語ることによって山の素晴らしさを伝えられることを知った彼は、これからも山に登り多くの人に出会い、今までの経験を語っていくに違いない。遺体を見ても泣かなかった久美が三歩の話に泣いてしまうのも、私には、説明できないんだけど、よく理解できた描写である。
 さてしかし、1巻でちょっと不満だったラストシーンが2巻では全て統一されているっていうのが嬉しいね。励ますことも救助のひとつであることを教えてくれた「ガンバレー」という叫び、長らく行方不明だった青年二人の遺体の発見を報告する久美の声、遭難した生徒を無事に見つけてキャンプに戻る先生、帽子をかぶって「ありがとう」と頂上でデイモンを悼む三歩、元妻と再会した画家の大きな山の絵、「山はハシゴをはずさない」ことを知るであろうサラリーマンに向かって手を振る三歩、山に残された友人を助けに行く彼に向かって「待っている」と語る三歩、どこかの山に眠っている老作家の息子の名前を呼びかける声、いずれも山の景色が描かれている。あーよかった。これでなくっちゃラストは締まらないよな。

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