「げんしけん」第7巻〜第8巻 二人の距離

講談社 アフタヌーンKC

木尾士目



 主人公・笹原と荻上の恋愛が中心となっていくこの2巻。斑目が春日部への恋慕を諦め、大野と荻上が和解の兆しを見せ始めた物語の隙間に転がり込んできた二人の恋愛模様は、第8巻に至って頂点を迎えるわけだが、双方が互いを意識し始める描写が前面に出てくると、二人の描かれ方も変化していく。距離である。
 二人の関係は第6巻から予感を秘めつつ展開されていたが、第7巻70頁・笹原の妹の「もう二人って付き合ってんでしょ」という発言によって、読み手にこれから二人の挙動に注目せざるをえない視線を促す。第40話、コミフェスの打ち合わせという大義で大野が笹原を連れて荻上宅を訪問する。だが荻上は取り付く島なく準備万全の旨を伝え、大野は荻上が笹原を間違いなく意識していることを悟る(読者もはっきりと知る)。
 第41話ではコミフェス会場で待ち合わせする二人が冒頭に登場する。先に来ていた荻上のもとに笹原がやってくるという構図である。ここでも荻上の準備の早さが表れているものの、前回同様に決められた場所に向かうには気負わない二人の距離感が、部室内での二人の位置同様に描写されていた。つまりイベントのようなもんではなく、どちらかが日常で普通に接近する描写が描かれなくなる。149〜150頁が決定的だ。就職先が決まらない焦燥と荻上との関係に進展を見出せない焦燥を重ねて笹原「……」の悔しさとも苦々しさともつかない表情である。普通の挨拶さえ気軽に出来ないほど意識しまくっている様子がよくわかる。部室では近づかざるをえないのだが、それさえもどこかぎこちない様子を詳らかに描写(164〜165頁)し、軽井沢合宿となる第43話では皆からちょっと下がった位置にいる荻上が、ペンション(または別荘みたいな宿か)の中に入って笹原に近付きかけてもひょいと身を翻して距離を置いてしまう。186頁1コマ目では皆で雑談している場面だが、ここに荻上は描かれず、何かの拍子に笹原と接してしまうのを避けるように2コマ目でぽつんとしている場面が描かれる。全員が寛げるほどの広さではないわけで、実際は声をかけられる位置にいるのだけれど、彼女だけのコマをひとつ置くことで、誰にも干渉しない・誰とも親しくならないような雰囲気を自然と表現しているわけだ。
 第8巻第45話からいよいよ二人の関係に焦点が絞られる。前夜の騒ぎがもとで二日酔いになって隣室のベッドで横になる荻上と、彼女を一人置いてはいけないという大野の名目で部屋に残った笹原というシチュエーションが出来上がった。居間で新聞や雑誌等を読んでいる笹原が荻上に近づくのは、彼女が寝ている場面である。コップを置く場面で一度接近しているが、ここではその様子は省略している。何故なら笹原は荻上の頼みごとを聞いた、という体裁の上だからである。あくまで彼女を慕った上で何の意味もないけど近づいていくことはない。先ほどの第7巻165頁も笹原が荻上に近づいたのは偶然であり、頼みごとがあったからに過ぎない。荻上宅に行くにしても大野と供に名目があり、コミフェスも同様だった。ここに至ってようやく笹原は荻上に顔を近づけたのである。それでも彼女は寝ているわけで、しかも「酒と吐瀉物の」匂いに思わず顔を背けてしまう有様だ。次にお茶を運んできた場面、ここから笹原の告白が始まる。起きたばかりの荻上は笹原がいないと思い込んで油断していた。そこに湯飲みを持って彼が登場し、一気に混乱する。笹原も自らの意思でお茶を持ってきていながらも荻上が目を覚ましていたことに戸惑いつつも平常心を保とうとするが、彼女の混乱に引きずられて思わず「好きだ」と言ってしまう。
 荻上が見続ける悪夢の元凶が彼女の親友・同類であることは明確である。荻上の創作欲を見越して罠を張り、どん底に突き落とし、それでもなお彼女のそばで彼女がのた打ち回る様子を影から蔑んでいる。傍から見れば親友は孤立した荻上を守っているように見えるだろう。だが荻上を屋上の縁に追い込んだのは他ならぬ親友だった。荻上にとって親しく寄ってくる同類は、みなこの親友と同種なのである。だからこそ頑なに拒み続け、不用意に近づくものには刃を向けるか・自ら落ちた。そして彼女に近づく男性もまた、親友に追い詰められた己が落ちるしか道がないように、いずれわたしに突き落とされる・突き落としてしまうかもしれない恐怖があった。笹原(正確には巻田くん)を突き落とす自分の姿に慄然として涙する荻上は部屋から飛び出したのだった。
 第46話「戻り橋」。それでも笹原が荻上を追いかけたのも大野と春日部に頼まれたという言い訳が先立っていた。橋の両端に位置する二人、笹原に顔を向けられない荻上は彼と視線を合わせようとしない。一方の笹原は荻上を見詰めながら話している。だが距離は縮まらない。笹原に身体を向けても顔を隠し続ける荻上、互いに欄干に寄りかかっているような態勢で彼女の妄想ネタを戸惑いながら聞く笹原は74頁で荻上が張り巡らしていた他人(特にオタク)への攻撃網に足を踏み込んでいく。ここの描写がさりげなくともよい。笹原が彼女の精神に歩み寄っていく姿をセリフの中に込めながら、実際に彼女に近づいたことを足元を描かずに描写してしまう76頁1コマ目が素晴らしい。
 さて、笹原は手を伸ばせば届く距離にまで自然と近づくことが出来たわけだが、ここから先を乗り越えたのが、というか乗り越えてきたのが荻上である、という展開がさらによい。111頁で笹原の隣にどすんと座る彼女、彼にとっては超え難いコミュニケーションの壁を唐突に乗り越えてくる破壊力を備えているのをツンデレっていうのか。145頁もそうだしな、どこか遠慮がちな笹原の態度を見越したわけでもなく、いきなり彼に耳打ちするっていうのがまた破壊力あるなー。

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