阿部共実「月曜日の友達」1巻

少年の日の思い出

小学館 ビッグコミックス



 中学一年の国語の教科書に多く掲載されている短編小説、ヘルマン=ヘッセ「少年の日の思い出」を覚えている方はいるだろう。蝶の収集を趣味とする主人公の少年が、もう一人の収集家の友達が思いがけず貴重な蝶を採集したことを知るや、いてもたっても居られずに彼の家に赴き、留守をいいことに標本を盗み見るも、突然の家人の帰宅に驚いて蝶をポケットに突っ込むと、粉々になってしまう。後日、謝罪に行くも、彼はきっぱりと冷たい言葉を言い放つのである……
 阿部共実の新作「月曜日の友達」を読んで、主人公の中学一年の少女・水谷が授業で読んだと言う小説が、それではないかと根拠もなく思った。どことなく暗い雰囲気を演出する阿部共実作品に、同じく暗い読後感の物語を予期せずにいられないからである。
 冒頭の授業風景の構図にしてからそうである。文武に優れた姉を話題に出されることへの嫌悪もそうである。マンガにあって当たり前の擬音もなく流線もほとんどなく、細かくペン入れされた神戸の実在の景色を背景にしつつも、マンガ的記号に彩られたキャラクターたちがそれらと融合していないような浮いた感覚を意識させる。だからといって背景とキャラクターが完全に乖離しているわけではない。つなぎとめている二つの描写がある。一つが影である。
 時には真っ黒に描かれる影は、主にトーンによってグレーっぽくキャラクターと建物を結びつける。夜や木陰などの暗い場面になると、その影の描写はキャラクターそのものになることもあれば、月明かりに寄り添うようにキャラクターにうっすらと影を映える。
 もう一つが、そこかしこに描かれる、煌めく円である。記号的表現のキャラクターの表情と、あまりに記号的すぎる円、時にはポールに時には月に、時には水滴になるそれらは、背景とキャラクターの間を取り持つように、球としてではなく円のまま描かれる。
 精緻な背景、円と影、キャラクター。三層のフレームによって描かれる物語は、中学一年生の水谷と月野の、まだ恋とも呼べぬ友達の交流を描く。月曜日の夜だけ本音を語り合う関係、それ以外では無関係を装う約束。だが、あまりにも危うい関係であることは、なにも水谷の想いがいずれ崩れ去る予感を秘めているだけではない。円と影は、容易に歪み消え去る程度の脆さと同時に、ボールは泥団子に、月は激しては肌を焦がす太陽に、水滴は滴る血に置き換わってしまう記号でしかないからだ。これらが変貌したとき、キャラクターの抱える大きな不安をたちまち読者に伝えてくるだろう。
 夜の校舎に開いた窓から侵入した場面、月野が「水谷 何かあったの?」と問いかける並んだ二コマ、最初の真っ黒の水谷と月明かりにほんのり明るい彼の顔が並べられるも、彼が歩きながら話していることがコマの繋がった背景からわかる。短い時間に一瞬心に影が差したような気配を表現しつつ、次にニコマでは同じように水谷の黒く塗りつぶされた身体と月明かりに照らされた彼女の映えた顔が描かれる。ここも背景は繋がっていることから、彼女もまた彼の問いに歩きながら答えたことが知れる。けれども、この二つの演出は異なった結果をもたらしている。
 どちらもコマを読む順番に従えば、話す前に心に何かしら感じ入るものがあったと読めるだろう。ところが、水谷のそれはコマの並びの都合上であって、時間軸に沿うと厳密には「なんでわかるんだ」の後に真っ黒な心境になっているのである。もちろんこれはマンガのトリックであって実際はコマの並びで読んだ通り、時間の流れと背景は一致しなくとも問題なく読める。
 あるいは、この真っ黒なニコマに気付かずに縦に二人の対話を読んでしまうこともあるだろう。実は、このような読み方をしてしまったのが当の私である。なにせ、二人の身体は背景の夜の黒さに溶け込んでいるように見えるからだ。
 いずれにせよ、この1頁にはコマの並びを正しく読んでも縦に誤って読んでも、結果的に二人の発言の裏を読もうとする契機が描かれている。今このキャラクターは何を考えているのか? 円と影が消えたことで浮いたキャラクターに、読者は否が応でもそれを読み解こうとする。物語に放り込まれるのだ。
 唐突に描かれる真っ黒なキャラクターは読者にとって強い印象を残す。この作品はそれだけに留まらず他のものも躊躇なく黒く塗りつぶす。
 夜のプールに着いたときの水面がそうだった。星空でただ月が浮かぶだけの黒い背景を映すように黒い水面が二人の前に広がる。黒も白もキャラクターの心情に強く反映された作画であることは読んでいくうちに気付くだろう。そして、ここでもマンガのトリックによって読者は水面にも現実の景色がそのまま映される、鏡のような世界を容易に受け入れる。
 ここは、影や構図によって隠された月野の悔し涙の表情が大きく描かれた後に、再び顔を覆う両手によって表情が隠され、月野の告白と水谷の決意が描写される物語の大きな動きとなる重点である。水面と併せてマンガ的効果により、映された二人の姿も本物と見まがう描写が施され、そこにフキダシがついたとしても彼らの言葉として理解して読み進められる。少し俯いた水谷は、水面を見詰めながら月野に自分が何ができるかを考える。フキダシだけのコマ、黒い背景。次コマは途端に、白い背景となって彼女は月野のフルネームをいうだけの言葉とフキダシだけ描かれる。彼女の見詰めていた景色が水面なのかそうでないのか、はたまた夢・内面の決意の表れなのか。ぱっと明るく白くなった背景は、そのまま水面の色となり……いや、水面か空か、境界は一瞬混乱し、水面に映った白い背景を背負う二人こそが本物なのではないかと錯覚するほど、少なくとも二人の心象風景は今まさに明るい心情になったのは違いないのだ。「私たち 友達になろう。」
 これらの演出がマンガのモノクロを活かしたものであることは明白である。けれども、読者はそのモノクロの世界に否定的な水谷のモノローグを知っている。「灰色の校舎 紺の制服 黒い頭ばかりの このモノクロームの世界」と。月野の瞳の色だけが色を灯している、彼の存在を希望のように語っていた。
 まるでマンガの世界そのものを受け入れがたいと表明しているような水谷の言葉に反して、さてしかし読者は、月野のカラーボールが舞う幻想的な場面にいろんな色を見たことだろう、ボールと戯れる水谷の笑顔がモノクロだけではないと感じただろう。月に照らされたプールの水しぶき。夏休みの月曜日に月野兄弟と過ごした一日。
 モノクロームの世界であるマンガの世界をこれから、さらにどんな色で染めていってくれるのか。楽しみであると同時に、まるで過去を回想しているかのような水谷の達観したモノローグが、「少年の日の思い出」の主人公のように、思い出を一つ一つ指でつぶしていくようなラストが待ち受けている予感もどこかで抱いている。

戻る