阿部共実「月曜日の友達」2巻

太陽

小学館 ビッグコミックス



 たとえば、1巻95頁のこのコマを見てみよう。中央の白い円は何に見えるだろうか。周囲が真っ黒であることから夜空と判断し、月に見えるかもしれないが、それらを担保しているものは何だろうか。記号的表現や過去の読書体験や個人的な経験が、このコマを夜空と月と判断させたとしても、だからと言って、月だと断定する根拠には乏しい。
1巻95頁
 だが、この場面を読んだ人ならば、これは月ではなく白いボールであることが迷いなく判断できる。円が物思いしているように見えるフキダシの主も、誰であるか断定できるだろう。
 さて、「月曜日の友達」で描かれる白い円は、このように白いボールである場合と、月である場合の主に二種に見当をつけることができる。実写であれば到底間違えるはずのない二つの物体も、マンガにおいては、どちらにもなりうる表現が出来るということだ。
 1巻120頁のこのコマの白い円はどうだろう。月だろうか、ボールだろうか。
1巻120頁
 本編で月とボールを分ける描写は、実は明確に線引きされている。常に丸い円として記号的に描かれるボールに対して、月は、月であることを主張するかのように、最初に登場する際に特徴的なクレーター模様を微細に描くのである。よって、このコマの白い円も、前頁に月野の頭上に模様が描かれる月を描くことで、黒い背景に浮かぶ白い円は月であると説明的にボールと区別されて描かれるのである。そして、この後の場面で月は月野のバックにその巨大な光を放って登場し、水面をまばゆく照らして水谷と月野の友達宣言を称えるのである。
 記号的表現としてのボールは徹底されているかのように真円で描かれる。投げられても弾んでも、その形を頑なに変えようとしない様は、円が、他の様々な記号に変容する記号であることを暗に含んでいる。
 写実的な月が、そのウサギ模様を失って円で描かれたとき、読者は、一瞬それが月かボールか区別できない状態に陥る。もちろん前のコマとのつながりを意識しているのだから迷うことはないし、意識すらされないだろう。けれども、突然、2巻14頁の下図のコマが出てきたとき、あれ、と惑わされるかもしれない。建物の前に白い円があるのだから、月と見誤ることはない。では、建物を黒く塗りつぶしてしまったら、もはやそれは月とも白いボールとも区別はつかない。
2巻14頁
 そんな状態を避けるために、劇中の月は、月であることを盛んに訴えるのだ。
 白と黒の鮮明なモノクロで写実的な背景とキャラクターを切り取り、記号的表現をその間に挟むことで、背景・キャラクター・記号(あるいは真円のような幾何学模様)の三層によって構築されている「月曜日の友達」という物語世界は、月をボールに変容せしめる力を温存しながら、水谷と月野の中学生の二人の友情の行方を詩的なセリフをモノローグしながら、丁寧に切々と照らし出す。
 二学期から二人の周囲が劇的に変わる様子を水谷は気付かないが、読者には明瞭に描写する。体育祭や音楽祭など、次第に多くの人々の輪の中心になっていく水谷は、物語冒頭の変人扱い、子どもっぽいと小ばかにされていた様子は既にクラスメイトの表情に全く見られない。恋愛について興味を抱くこと・容姿に対する意識の変化で大人になったことを主張していた友達とは別に、水谷は、力強い自己主張によってクラスの中で異彩を放つのである。演劇祭でいよいよ主役と思われるキャラクターを演じるに及び、彼女の表情は、月野を抜きにして、夜空の月の如く輝くのである。
 秋。冒頭から月曜日の夜が楽しみで仕方のない水谷は、夏休みに一度会って以来の久しぶりの再会にはしゃぐ。饒舌で、いつもならモノローグで訥々と心情を語り月野の思いを探る彼女だったが、夏休み明けから変わった。「お久しブロッコリー」と、詩的なモノローグからは想像できない言葉を選び、超能力の実験を繰り返す月野を「あったな そんな設定」と最初の頃の約束を忘れてしまったかのような発言までする。不安がよぎった。月野の表情はいつも浮かないし、感情がはっきりしない。水谷にとって当初、それら彼の振る舞いは不安の種のはずだった。読者である私も、月野は本心で水谷を疎んじているのではないかと思ってしまうほどに、学校で出会う彼は、何を考えているのかわからなかった。
 二学期を彩る学校行事を楽しみだと語る水谷に対し、月野は、自分には辛い時期で苦手だと胸の内を明かす。だが、水谷の高揚感の前に彼の言葉は届かない。両者の関係の変化に彼女は気付いていなかった。だが、月野は知っていた。水谷もよく知っているはずの彼女の態度は、思いやり・あるいは理解者という名目の、善意めいたものに他ならない。すなわち、水谷の姉であり、月野の父である。
 もっとも、二人にとってそれぞれの近親者は、異なった意味を持っていた。水谷にとっては、姉と比べられることに対する劣等感が混じった卑屈さがあったろう。勉強もスポーツもできる姉、人気者の姉、それに対していつまでも子どもっぽい自分。一方、別居中の月野の父は、妹弟たちと週に一度の食事に、ここぞとばかりに歓心を買おうとしているかのような挙措が月野にとって不気味だった。妹たちが父に取られてしまうのではないか、それを防ぐには自分はいち早く自立しなければならない。
 知らず水谷は自身の姉のような存在感を放ち始める。読者の不安をよそに、水谷は月野を想いつつも、火木がやたらと月野にまとわりつくのを少々忌々しく訝しみながら、月曜日の夜にしか本音を聞き出せない状態に苛立っていく。実際には、そんな感情はなかったかもしれない。だが、月野を想って行動する彼女は、まさに妹を想って口うるさく嘴を挟んでくる自分の姉そのものなのである。そして水谷は、いよいよ月野の父のように、月野の歓心を買うべく火木に感情をぶつけるのである。
 もちろん、水谷にその自覚はない。彼女は、火木が月野からいつまでも借りっぱなしのゲームを早く返すように諭そうとする。落ち葉散る校舎裏のこの場面が美しい。ちょっとした風で今にでも舞い上がりそうな軽さを感じさせる落ち葉は、月の描写のように一枚一枚精緻に描かれていたが、水谷と火木が対峙し、落ち葉が円を描くように二人を囲んだ瞬間、まるで生き物のように、白いボールのように弾み始める。
 火木の告白は、数瞬、水谷を動揺させたかに見えた。背景に三枚の落ち葉がゆるやかな風に乗って落ちていくような場面。ここから読者は、月野が父の存在に危機感を抱くように・水谷が姉を避けるように、火木もまた、兄の呪縛に苦しんでいたことを知る。月野のための言動が、火木にとっても口うるさい水谷の姉の嘴の如く、火木を苛立たせたのである。彼女の憤りは、水谷の姉を煙たがる水谷そのものであったことだろう。そして、二人の感情に影響されたかのように、落ち葉が躍動する。
2巻33頁 2巻33頁4コマ目 火木との対峙中に思いがけず知った事実に、水谷は姉を思い起こす
 単純な円として描かれたボールのように飛び弾み、それでいて子どもっぽさを隠すことなく、月のように輝き始めていた水谷は、火木との出来事が決定的となり、月野から絶交されてしまう。己の変化に気付けず、現実的な背景の一部・それは顔が一切描かれない大人の仲間入りを意味し空を飛ぶことや幽霊が見えることや超能力が使えるといったことを「そんな設定」と子ども扱いする、一見複雑だが、月は月としてしか認識されないクレーターを言動に刻み、頬には傷がつけられた。彼女の見る夢の変化も連動する。物語前半、空から落ちる夢について語る彼女は、月野が差し伸べた手を掴むことが出来ずに落ち続けていた。けれども後半に彼女が見る夢は、月野との楽しい出来事ばかりとなる。
 月とボールのすれ違い。描写レベルで起きていた変化は、キャラクターレベルでも、物語レベルでも同時に進行していたのだ。幽霊が見えたと教室で騒いでいた火木は、月野と目撃した宙に浮かぶゲームの入ったきんちゃく袋に、幽霊が現れたと迷うことはなかったけれども、読者の一人である私・すっかり子ども心を失った私は俄かに惑乱する。これは、劇中で本当に起こった出来事なのだろうか?
 どう解釈してよいか現実的な回答を考える私、絶望し落ち込む水谷、他人への思いやりを大人としての水谷の説諭によって悟った火木、信じ続けた超能力をいよいよ目の当たりにしようとする月野。まったく無関係の私が、キャラクターたちとは異なったレベルであれこれと考える。信じる信じないではない、現に描かれたのだ。月のクレーター模様のように、はっきりと大ゴマで描かれたのだ。自分も劇中に放り込まれてしまったかのような錯覚に、本を持つ手が震える。自分自身は、劇中の顔のない大人たちの一人だ。けれども、いや、だからこそ、山場で私は彼に着目してしまうのだけれども、それは今は置いといて、月野たちとともに苦悩できない歯がゆさがにじみ出てくる。それはつまり結局のところ現実と虚構の違いという当たり前のレベルでしかないし、身も蓋もないし、理解しているのだが、いや、これこそが月野と火木が見た夢ではないかと、やっぱりどこかで考えている。
 そんな私の憂いをよそに物語は水谷を癒すべく、土森を満を持して登場させた。彼女は水谷の小学生時代からの友人だ、理解者である。時折水谷を見詰める表情があったことを思い起こす。なにかと水谷の傍にいて、見守っていた。だから察していた。そして、光の粒がキラキラと二人の周囲を照らすような、またも起きた不思議な現象に、私の戸惑いは、これは本当に起こった出来事なんだ、と理解し始める。虚構の世界の出来事としてではなく、いや虚構の出来事なんだけど、現実の出来事として認めてしまったかのような錯覚があるのだ。
 「売地」の立て看板が目立つ空き地で起きた風や水谷の頬をかすった光の破片が予兆としてあった。いやもっと前から、月野の自転車の乗った日の「痛っ」という静電気とともに起きた真っ黒な林の世界と真っ黒なキャラクター世界が、不気味さを醸しつつ、不思議なことが起きそうな気配を少しずつ物語に埋め込んでいた。背景とキャラクターと記号の三層が同じ地層として・あるいはごちゃまぜになって描かれる瞬間をコマの中にたくさん見てきた。それが、物語レベルで混淆し区別できなくなっていく体験を、キャラクターとともに私も同じく体験したのである。虚構だけど、虚構じゃない! 現実だけど、現実じゃない!
 三学期の始業式前の二人が「痛っ」とぶつかる場面で期待感が沸き上がる。宙に浮くような・不思議な光で満たされるような、そんな奇跡が起きるのではないか。もはや、何が起きても不思議じゃない。物語で起きるすべての出来事を受け入れる態勢は整えてきたつもりだ。
 見開きの二人。
 背景のクラスメイトの表情がとても素晴らしい。おそらく月野も水谷も気にしてこなかった背景のモブでしかなかった彼ら、でも、彼らは大人ではなく顔のあるキャラクターとして名もない役を演じていたではないか。彼らには彼らの物語がきっとあったことだろう。今日この日は、月野と水谷の物語が教室の中心に据えられたのだ。はやし立てる彼らの声は、月曜日の恋愛バラエティ番組なんかより、身近で刺激的に違いない。
 二人の疾走、体育館の屋上、締め付けられていた感情が一気にあふれ出す感傷的な場面、コマの配置や水谷のセリフと一体化し、扉を開く動作と併せためくり効果からの解放感が、二人の表情にすべてを語らせた。
 ここまで来たら、あとはもう空を飛ぶしかないじゃないか。
 それでも私はどこかで本当は空なんて飛べるわけがないと思っている。幽霊も公園の光の粒も、どこかで夢なんじゃないかと思っている。月野が黒板に不思議なことが起きるメカニズムを図解している場面を読んでも、彼の言葉に根拠は全くない。子どもが多い場所とか、ゲームがきっかけとか、二人が触れることがスイッチとか、何かと比較検討できるものでもなく、単なる推測でしかない。もっと言えば、超能力が発動してほしいという強すぎる願望が高じた果ての妄想でしかないのではないか。物語の世界に入りこんだ私と、冷めた視線で本を眺める私が入り混じる。本当に起きてほしいけど、本当に起きやしないと思う。
 水谷は反発していた姉の部屋を自ら訪れると、姉の左手首からよれよれの手編みのブレスレットが覗かれる。水谷がいつも身に着けている、ぴしりとしたものとは大違いのそれを姉はいつも着けていたことを読者も水谷も知っていた。姉妹の関係がぎこちないことは、夏休みに月野の妹弟と遊んだ帰りの電車で、彼女自ら語っていたことから、いつか歩み寄ろうとする日が来るのではないかと予感があったけれども。
 すなわち月野と水谷は、それぞれが父や姉に歩み寄ることで成長する姿を描くこともできた。少なくとも水谷はそのような描写を挟むことで、月曜日の姉の訪問を受け入れるに違いないし、月野も父の影に怯えることはなくなるだろう。そういう物語でも十分だった。だが、三月の月曜日の夜、見回りする教師に追われながら校庭を駆ける二人を見るうちに、ああ、これは空を飛ぶな、飛ばなきゃ嘘だな、絶対そうなるな、と自分に言い聞かせるように読み進めていた。それこそ、月野が黒板に予測を書き連ねるような形だけの根拠すらなく、ただの願望めいた期待に過ぎない。火木が駆けつけることで盛り上がると、追われて追い込まれた果てに、感謝の言葉と握手を契機に、いよいよ発動する場面は、感動を超えた感情が一気に押し寄せた。
 いろんな言葉で形容できるだろう。けれども、まず単純にこの劇中で起きた出来事を素朴に受け入れたい。ボールのように、月と見間違えてしまうような浮遊感のまま、二人が空を飛ぶ。
 二人を追いかけた教師が、真っ黒い顔のキャラクターとして描かれ続ける。水谷の肩を掴もうと伸ばす手は届かず、たった一人、劇中で確認できる唯一の確かな目撃者として、彼は何を思ったのだろうかと考えてしまう。二人の浮遊は、その後、月野の弟と水谷の姉に認められるけれども、遠くから見詰めているだけで、二人とはわからないだろう。その瞬間を知っているのは、物語では異質な存在として描かれ続けるひとりの大人・つまり私自身なのだ。
 彼がいなければ、二人の浮遊は夢でしかなかったと片付けられてしまうかもしれない。所詮は作り話と冷めている私の分身を横目に、劇中に入りこんだ私は、信じられないという顔で、恐る恐るページを捲っていく。このまま読み終えてしまうのがもったいない。読み終えてしまえば、冷めた自分が顔を真っ黒にして戻ってくるような、簡潔に言えばそれは現実という奴なんだけど、その教師もきっとどこかで、信じられない・いや本当に飛んだのだと葛藤しているのではないかと想像してしまう。そして月が再登場する。
 劇中では、二夜しか登場しない月である。いずれも満月で、それ以外の描かれ方は全くされない。ボールがいつまでもボールでいるのに、月だけは、ここぞという場面で、クレーターを露にし、夜空に圧倒的な存在感を放ちながら描かれた。神戸周辺の街並み、瀬戸内海、右端の大橋、右上の月。二人の浮遊と列をなす机が、決定的に現実に起きた出来事だと読者に突きつける大ゴマ一頁の場面。あるいは、「私たち 友達だよな。」と月をバックに月野に抱きつく水谷は、「ずっと一緒だよな。」と自分に言い聞かせるように語る場面。背景の月は変幻すると、白く白く二人を照らし、やがて夜空の黒い背景は月の光に覆いつくされたかのように二人を静かに静かに包み込む。
 夏休みが終わりに近づいたある日、水谷は夏休みのたった一日の月野との思い出を燃やすかのように花火に紛れて紙を燃やしていた。けれども、この空を飛んだ記憶は、どんなに焼き尽くそうとしても消えることはない。同じ思い出を何度しがもうともその味を失うことはない。私自身、生涯忘れることのできない読書体験に幸いを感じている。それだけは確かな現実なのだ。
 そしてまた春が巡る。少女が少し項垂れた様子で教室に向かう。まるで異次元のように立ちはだかる教室を前に、少女は一瞬立ちすくんだ。まだ短いツインテールは、高校まで切らさずに伸ばせば腰近くまで伸びるんじゃないか、水谷の姉のように、と思わせる。教室に入っても机にしがみつくようにして離れず俯いたままだった。教室のみんなが外に出てしまうと、少女の前には一人の女の子が同じように席に座っていた。この物語を輝くものとして、最初から最後まで姿を一切現すことなく、ひっそりと支えていた優しい光の太陽が、月のように自己主張せず、穏やかに寄り添う。
2巻123頁 太陽はその存在をひっそりと主張し続けていた

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