panpanya「グヤバノ・ホリデー」

72頁目の考察

白泉社 楽園コミックス



 真っ黒になるほどに描き込んであるんじゃないかと思えるほどの精密な背景が特徴的なpanpanyaの短編集「グヤバノ・ホリデー」が素晴らしい。
 2頁の掌編から50頁の中編とバラエティに富んだ作品群にあって、エッセイ色の強い短編のうち、作者と思しくキャラクターがフィリピンにグヤバノという果物を求めて巡る実録とも言える表題作が、これまでの作者の世界観の特徴を自ら炙り出す、格好の作品となった。
 panpanya作品を印象付ける背景は、作品にとっての主題とも言える存在感を放っている。マンガの精緻に描かれている背景は写真の取り込みなどCGの活用によって多様化しているが、本作にとっては、背景そのものがキャラクターとして活きている点が大きい。
 「いんちき日記術」では、実際には一歩も家の外に出ていない、背景の筆致とは真逆に簡素な線で描かれた主人公が、ハガキを届けたという同居人だかなんだか、作者のマンガによく登場する人型のよくわからないキャラクターの言を借りて宿題の日記を書こうと、見知った景色だからポストまでの道のりを思い出すところから、どうせ先生は読んでもわからないんだからと、散歩ついでに先の道にまで足を延ばした体で、景色をあれこれと思い起こしていく。そこで描かれる景色は、他の作品で丸みがかった線できっちりと主張していた建物が、想像の線であることを示すように、鉛筆っぽい線を重ねたような、あやふやな印象で描かれ、その趣が示すところは読者にも明らかである。
  図1 43頁 図1。43頁。
 頼りない描線と「ぼんやり」という擬音が、思い出しながら書いている雰囲気を十分に伝えてくるだろう。コマ枠も含めてフリーハンドで線を引いていることによるコマの若干の不安定さも、効果的である。
 この対極にあるとも言える「グヤバノ・ホリデー」は、写真を景色に取り込んだ。これは、一体どういうことだろうか、と私は視線を止めたのである。
  図1 72頁1コマ目 図2。72頁1コマ目。
 「ブロー」という車の走行音。主人公と同行者は、この車に乗っている。では、コマの右半分を占める明らかな写真は、どうだろう。ここで実際に取材よろしく景色の写真を作者が撮って、作品の背景の一部に使っているのだろう、という簡単な想像である。
 だが、その一歩先を「いんちき日記術」のようにさらに考えてみたい。むしろ何故、右半分だけなのだろうか、と。
  図3 72頁5コマ目 図3。72頁5コマ目。先の図と同じ頁にある主人公の1カット。
 やはり「ブロー」という建物の描線のやる気みたいなものとは異なる頼りない擬音の中、主人公が外を眺める場面である。簡単な話だ、この角度から撮ったのだから景色の右半分のしか撮れなかったのである。
 いや待て待て、車の中から写真を撮るなんて無茶だろう。前頁でどの車も運転が荒いって説明されているじゃないか。なるほど、確かにそのとおりである。となると、ますますこのコマだけ人物も含めて何故、写真なのか。なんだかよくわからないトカゲだかカエルっぽいキャラクターは、モブキャラとして記号化されている。本作でも写真の建物にそのキャラが描かれる背景もある。
  図4 72頁4コマ目 図4。同じく72頁4コマ目。図3で主人公が見ている景色である。
 車の中から主人公が見たコマでは、写真とキャラが融合されている。単に人の顔を描いちゃまずいと判断したんじゃないのか。図2の写真の人物たちはヘルメットをしているし、右端の人物も横顔とはいえ識別できるほどの解像度ではない。72頁の最後のコマで、主人公は「一軒一軒立ち止まっていたら 時間がいくらあっても足りない」と述べていることから、最初は車から降りて、あるいは実際は町中を歩きながら、しっかり撮っていたとも考えられよう。
 物語としては「車窓を凝視する」ことによって、次頁で車と「ブロー」という擬音とともに描かれる写真の背景は、車窓から眺めた体で描かれるけれども、それがこの頁と次頁で使われた店先を写した写真の背景なのだろう。
  図5 101頁 図5。101頁3コマ目の左半分。
 実際に車窓から撮ったと思われる、ぶれた写真も背景に使用されている。他にも111頁では走行中と思しき自分が乗る車の一部が画面端に写っているなにかの看板の写真もある。  もちろん、そんなメタ的な読み方はお遊びに過ぎない。本題はここからだ。写真と描線の融合によって旅行記としての実録感を醸すことに成功しているこの技法により、panpanya作品にとっての背景の意味が浮き彫りにされた。
 もっとも、作者は作品についてすでに以下のような言及をしている。
「――panpanya先生は、背景を描きたくてビッシリと描いているのかと思ってました。そういうわけではないんですね。
panpanya そういうシーンもないわけではないです。ただ、基本的にはストーリーを描く上で、ないと困るから描いています。また、余計な物を描きすぎて、関係ないところに意識がそれるのも嫌なので、必要十分、という意識があります。背景をびっしり描きたいと思ったら「びっしり背景が描かれる必要のある話」を考えます。」
(出典:http://konomanga.jp/interview/811-2)
 「足摺り水族館」上梓後の、初期の貴重なインタビューで、背景の意味を自ら語っている。引用した言葉から、必要であるから描かれる背景があるとわかる。他のやり取りからも、必要でなければ背景は描かないし、キャラクターにとって背景の意味を十全に考えた結果としての緻密な背景が選択されていることが、わかりやすく自己解説されている。
 つまり、図2の写真とマンガ的背景の融合は、右側のフィリピンに行きましたよという記号的な表現・現実としての景色と左側の車で移動する物語として必要な描写としての景色の、少なくとも二つの階層から成立していると読める。これは2頁の掌編「偶然の気配」「いつもの所で待ち合わせ」に凝縮されている。
 「偶然の気配」は、町中を歩くキャラクターの気持ちを背景である建物の看板類が代弁する。作品の性質上、看板の文字はなくてはならない、作者の言う「必要十分」なものを建物の中に溶け込ませ、キャラクターを見ながらにして背景にも視線を動かす楽しみがある。一読して意味が分からなくとも、何度か読み直すうちに、背景の意味というものが読者にもわかってくるだろう。
 「いつもの所で待ち合わせ」に至っては、主役が背景であることが読み終えてから理解されていくだろう。キャラクターたちの会話がそこに意識が向くように仕掛けつつ、やはり読者は背景の変化に目を凝らしていく。けれども、これら背景は主に建物の形状や看板であることを忘れてはならない。
 逆説的に、必要だから描く、必要ないものは描かないという姿勢が如実に表れているのが、もう一つの背景とも言える空の描写なのである。
  図6 99頁 図6。99頁
 終盤、念願のグヤバノを食べることが出来た主人公は、感慨深げに夜の街を散策する。対岸の島や変な形の船、よくわからない樹木に目を止めつつも、街のほの明るい光が届かない空は、真っ黒に塗りつぶされ、描かれる星が☆と手描きされる。この筆致は、キャラクターと同等の簡略さである。
 もう一度、図2を凝視したい。
 擬音のブローは、図2、図3、図5にもあるように車の走行音として劇中ずっと描かれ続ける、荒い運転なんて想像できない擬音であるが、そうした情報は最初のナレーションに留め、車が動いてますよ程度の記号である。
 空はどうだろうか。電線が巡らされ、左の筆致と融合している。いや、ほとんど写真から描き起こしたように思える。白い空、晴れている。広々としていながらも、電線が効果的に雑踏感の演出を担っている。右の写真の椰子と、左の手描きの椰子が、違和感なくコマの両端にある、写真と明らかな手描きの樹木の線の密度の差が本作の現実と創作の距離感であるかのようだ。
 演出ではカメラワークが意識されている。図2の正面の車、図3の横からの車、そして次図の後ろ姿により、図2近辺の町中を通り過ぎていった主人公という動線が想起できよう。
  図7 72頁6コマ目 図7。72頁最後のコマ。
 図2→図3→図7と車の構図により読者の目の前を主人公を乗せた車が通り過ぎて行ったかのような錯覚がもたらされる。フィリピンの街の中に突然放り込まれかのような感覚だ。
 引用しないが、次頁も町中を走る車が横アングル、次にそのアップ、そして斜め後ろからの車によって様々な景色を通り過ぎていった、という動きが景色とともに描かれている。
 写真と手描きの融合、単調な擬音、手抜かれた空、そしてキャラクターの筆致。これは本当に現実なのかと言う浮遊感は、現実の世界を舞台にした旅行記であっても損なわれることなく、それでいて読者は見知らぬ街に作者と一緒に放り込まれたかのような幻想的な気分になる。72頁目の演出・コマ運びは、作品の特徴が全て詰め込まれたような面白さに溢れている。

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