林シホ

「春の夢を走る君へ」1巻 儚い余白

白泉社 花とゆめコミックススペシャル


 「夏の夢」ではないのか。高校野球だから、てっきり安直に夏という言葉が合うと思っているのだが、野球部の強豪校という、そしてその中でも注目されている2年生の投手・真澄と中学時代ともに野球をしていた新入生で主人公の愛生(めい)の二人の恋模様を余白たっぷりに描く物語は、選手とマネージャーという関係性を媒介にしつつ、過去の(といってもほんの二年三年前のことだが、この年の子たちにとっては大昔なのだ)の選手同士の関係性を仄めかしながら、微妙な距離感を繊細に描いている。
 冒頭の真澄の背中からして、存在感の大きさが極めて鮮烈に描写されていた。頭一つ大きな身体の後頭部から捉えた構図が、真澄をチラ見し通り過ぎる生徒たちの表情から、男女関係なく好感度の高いキャラクターであることが知れる。そんな真澄が、部活何にするかまだ決めかねている愛生に目敏く、一緒に歩いていた3年のマネージャーとともに声をかけ、野球部のマネージャーに来いよと気やすく勧誘してくるところから、二人のちょっとした関係性が想像できる。
 物語の進展によって、冒頭で触れたとおり、二人は中学時代に同じチームでともにプレイしていたのだが、愛生は高校に上がって野球から離れようと思っていたものの、誘われるままに、結局マネージャーとして野球部に入ることになったのだった。
 愛生の「まともに息が吸えていなかった」というモノローグから、すでにもう気持ちの行方がはっきりしているのだけれども、当の真澄はあくまでもチームメイトの一人として接しながらも、中学時代の癖が抜けず、近い距離間で対話を試みてくるのだから、心身ともに周囲の視線というプレッシャーが付きまとう。ただでさえモテモテの真澄だ、劇中では野球にしか興味がない「野球ばか」と謳われながら、明らかに愛生に対してだけは、好意を感じずにいられない言動が続く。
 真澄側の愛生を見詰める視線の描写も意味深であり、テーピングを巻いてくれと頼む場面なんかは読者からは嫉妬じゃね?と勘ぐられかねない(全く関係ないが、左足首の捻挫が治ったばかりか。足首の故障はかなり心配だよなぁ。右投げだから、軸足ではないだけましとはいえ、リリース時に体重を全のっけする大事な部分だから、変に捻挫癖つくと全力投球できず無意識に左足をかばった投球によって、今度は肘や肩に影響を及ぼす恐れがあるから、怖くはある。もし真澄が野球できない状態になってしまったら……という展開もありうるのかと思うと、なかなかに「春の夢」という言葉の古典的な意味に想いを馳せてしまう)。あるいは、愛生の欠けそうな爪を見て、ちょうど爪のケアをしていた最中だったこともあり、爪を切ってやろと手を握ってきたりして、無造作に近付いてくる真澄は、ほとんど確信犯じゃんと思えなくもない。もったいぶった演出にやきもきしながらも、あっ、この場面すごい好き、という瞬間があったのである。
1巻75頁
 75頁3、4コマ目。  朝連で一緒に走っていた二人の関係は、早速チームメイトから疑われる。愛生が真澄目当てで付きまとっているのではないか。もちろん実際にはそんな理由でなく、足のケガを憂慮し、走り飛ばし過ぎないようペースメーカーとして愛生と並走しようという発想が元だった。何かしらの疑いを向けられた愛生は、中学時代の関りを隠さずに打ち明けるも、チームメイトたちは納得していない様子だった。その直後のコマである。
 後ろに横たわる余白。過去への思いと今の思いが交錯している深い空間である。不意を突かれるという言い方が当を得ているかわからないが、この時の自分の感覚を言語化すると、そんな感じで、次のコマの「それだけだよ」と言いたい言葉が出てこない、口ごもってしまうキャラクターの一瞬の葛藤が見える。嘘を言う必要はないと自分で言いながら、自分で「だけ」と言ってしまったことに対する予想以上の衝撃が、陰のある横顔に秘められていた。もちろん「それだけ」であるわけがなく、真澄への好意をモノローグや視線の先で読者に明示しているのだから、他人には気付けない感情の激しい揺れ動きの瞬間を切り取った、余白で語った場面として、瞠目してしまったのだ。
 同時期に上梓された短編集「9回裏の恋」にも似たように感じた場面があった。動揺する自分の入り乱れる感情が、周囲の無関係な場面や他人の介入によって静寂に切り替わる。終盤、何気ない日常の中で唐突に告白された主人公の感情を置いたまま、通りすがりの野球部員の掛け声や、近くで部室の鍵のやり取りをしている会話を被せつつ、潜んでいた感情が一気に込みあがってくる場面にもかかわらず、盛り上がりそうな内面の歓喜がぐっと抑制されて、回想やモノローグによって再確認されていく。落ち着いた筆致が、あれ?今確かに告白したよね、このキャラクター?と二度見してしまうくらいに、劇的に描かないけれども、強烈に印象に残る山場を引き立てている。
 劇中では柴というキャラクターによって事なきを得つつ、真面目さをからかわれるような展開がまた別の物語を予感させはするが、真澄の捉えどころのなさをいくつか描かながら、翻弄される愛生の様子が続く。そして、次の試合で先発をするという真澄が、丁寧に爪にやすりをかけている(この繊細さが随所に描かれているのもまたよい。バットの握り方とかボールの投げ方とか、そういう分かりやすい描写ではなく、練習の準備や後片付けなど裏方としての確かな野球の描写力もまた本作の魅力である)場面で、思いがけず、ほとんど告白めいた言葉を勢いで発してしまう。
1巻123頁 1巻123頁
 逃げるように真澄から離れた愛生の恥ずかしさが余白によって描かれる。コマ枠が消失し、ページの端に消え入りたいかのような陰のある横顔と、ひょっとして後ろから追いかけてくるかもしれない真澄をちょっと期待しているんじゃないかとも思える、ここから真澄のごつごつした腕がぐっと飛び出して後ろから抱き着いてきたら……なんて妄想が過ぎるけれども、愛生のほとんど自虐めいた羞恥心が噴出する。
 さてしかし、「野球ばか」のおかげなのか否か、真澄との関係は進展するのかしないのか、「9回裏の恋」で見せた野球部員とマネージャーという関係性を維持しつつ、二人の親密さはきっと増していくに違いない(もちろん柴との関係も)余韻を残しつつ物語が終わったと思いきや、「1巻」なんだね。短期集中連載が終わってからの単行本化と思いきや、またどこかで物語の続きが描かれるのだろうか。
 高校野球を傍らに、夏ではなく春を選んだタイトルについて冒頭で触れたが、単に物語の舞台が春の季節だからだろうけど、儚さを感じさせる古典的な「春の夢」という意味と「君」が実は愛生のことを指していると考えれば、愛生の想いの辛さが一層際立ってくるというものである。

(2025.9.8)

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