「ヘルタースケルター」

祥伝社

岡崎京子


 休筆から7年過ぎてなお存在感を失わない岡崎京子の幻の傑作とまで一部で言わしめた「ヘルタースケルター」が発刊されて1年が経とうとしているが、いまだに私はこの作品との距離感がつかめないままでいる。「リバーズ・エッジ」の感想を書いたときに貫いた、作品を社会的に論じない、という態度が「ヘルタースケルター」に限っては全く出来なかったからである。すぐに買ってすぐに読んだ、そしてまた読んだ、壮絶な展開に圧倒された。これは誰かに伝えなければなるまい、という自己満足が沸いてきた。けれども書けない。思いついた主題を挙げることは誰でも出来る、それを下敷きに感想なり批評なりを展開することも容易いだろう。今もどこかでこの作品の書評は行われているかもしれない、昂揚感にまかせてどこかの掲示板で叫んでいるかもしれない。しかし、そんな簡単な方法でこの作品との関わりをとりあえず♀ョ結することが私には出来なかった。作品名を仮タイトルとして幾度も一行目を書こうともがいたが、あまりに深い衝撃の穴が私には作者の陥穽にしか思えなかったし、見事に計略にはまった自分が思いのほか心地いい気分であることを自覚するにつれ、述べる行為自体がとてもばかばかしくなってきた。そう思ってまたしばらくすれば、この作品の感想そろそろ書きたいなーという気持ちが動き出す。紹介するにしてはすでに時を逸して久しく、新刊レビューとしての価値もなく、では今更何を語るのか。結局のところ、そのとき感じたことを書くしかないじゃんという着地点を得て、こうして仄暗い中でもがきながら、どうにか一文字一文字キーを打っている(と、大仰な冒頭文でした、なんちて)。

 さて、本作の魅力は劇中で麻田検事が語っている、「一見かんぺきに見えてバランスがずれている そこがなんとも不思議なかんじだ」。社会学からなにやらの学問的な見地からの擦り寄りはどこぞの評論家にでも任せておけばいい。ここでは、演出の技法から読者にドカンドカンと伝わってくる登場人物の一見リアルな叫び・でも笑いに似ているという不思議な感じを読み取っていきたい(ついでに一言。単行本のカラー見開き頁、りりこが煙草加えて仰向いてベッドにもたれかかっている絵、ここの構図は明らかに変でしょ、遠近感がおかしいんだ、りりこの顔が異常に大きい。けど、バランスを崩すことによって迫力が生まれる、不思議だね)。
 場面転換の鮮やかさがまずある。画面上の勢いをそぎ落とすことなく次の話・状況に舞台を移すに巧みなのである。雑な筆致といい加減な描線とは正反対に計算された演出・構成が、読者の意識を停滞させずに連続させたまま読むことに邁進させるのである、まるで映画のように。と同時に漫画的でもある点が、言葉なのである。
 従来の岡崎作品のほとんどの言葉は縦書きだった。独白にしろ説明書きにしろ縦書きが並んだ。「リバーズ・エッジ」も例外ではない、様々に引用された言葉は白抜きの文字によって真っ黒なコマを光らせた。1994、1995年の頃の作品から横書きが登場する。「うたかたの日々」は小説が原作ということもあり、言葉の量は半端でなく、横書きも多用された。横書きの言葉が何を意図しているかなんてわからないが、「ヘルタースケルター」においてそれは奇妙な停滞を促そうと罠を張る。
 たとえば2ちゃんねるのどこぞのスレッドをぱらぱらと眺めていると、レス番号があるにもかかわらず、書き込みの順番どおりに意味を類推してしまう時がある。ある意見があって、すぐ次のレスでそれが肯定されている書き込みがあると、意見が誰かに肯定されたと錯覚する。けどレス番号はそれ以前を指していて、その意見がまるっきり無視されていることに気付くと、ひどく裏切られた気分になる。関係ない文章の列挙に簡単に翻弄されてしまうのだ。
 本作に限らず、言葉が挿入されることによって物語を理解する行為は歪み、時には中断する。ましてそれが読み慣れた縦書きから一転して横書きにされると一層促される。ところが、そのような思考の切り替えがあってもなお物語の印象は意識にとどまっているのである。
 たとえば第1話の締めのコマは横書きの言葉である。縦に読んでいた思考が、最後に変換を求められる。右上から左斜め下に自然と動いていた視線が、左上から右下に強制変更させられる。視線は画面の黒さに吸い寄せられ、どこにも続こうとしない。りりこの居直ったような叫びを脳裡に残したまま、物語が黒い闇に吸い込まれていくようである。
 第4話冒頭117頁の引用(この言葉はアメリカの芸術家ジェニー・ホルツァーの作品「扇情的なエッセイ」から一部を抜粋したものである。私がわかったのはこれだけ。他にもいろんな作品からたくさん引用されているだろうね)の言葉、ここでは最後の一行「あのとき」が左下にあって、次の頁をめくるための視線の動きを最小限に抑えている。また視線をあらぬ方向に向かせる隙に(横書きの言葉を挿入して)場面転換を行ってもいる。言葉が場面と場面をつなぐ役目も果たしているのだ。205頁では左に行った視線を右に戻す途中に横書きの独白がコマとコマの隙間を埋めるかのように挟まり、読むリズムを損なわせず次の場面に移行している。読者の意識・視線の流れ・物語を理解させるためにさりげないが実に注意深い計算が施されているわけだ。
 135頁では視線を右下に誘導することで、頁をめくる時に再びこずえの姿を見させる。つまり、最初の彼女の生まれ持ったかわいさという印象がその言葉によって味付けされ、さて再び眺めると、違った印象を無意識に抱かせているのである。この言葉はこずえ自身がそのときに語ったわけではない、誰が言ったのかはっきりしていないが、この無意識の操作によって、後にこずえがりりこの真実を知るにつけ258頁のこずえの台詞は確かな説得力を持って真に読者に迫ってくるのである。またさらに彼女がどのような考えを持った人物なのかが238・9頁で描かれることで、「リバーズ・エッジ」での彼女の存在に言及するまでもなく、彼女の意味を考えることが出来るのだ。
 言葉以外の演出でも印象の入力と出力が巧みだ。142・3頁の見開き、闇夜の静まり返ったビルの工事現場、「何かが終わる音がする」を受けた直後の描写、この勢いが異様である。34頁で建設工事中のビル群がここで静止してしまう。152頁も静止した鉄骨むき出しのビルがある。静寂が、終わる音なのである、麻田は事件を追う過程で朽ち果てた建物や死体に出会うが、静寂が続いた果ての姿がそれなのである。だから「死はいつでも足音を立てずに」静かに気付かれずに迫ってくる。整形した身体を建設工事にたとえるのは容易い、だがその先の表現を最初から描いている(62頁の廃墟など)ところに綿密な構成が垣間見れよう。そして工事を行わなかった場合のその後の姿が登場し、ママの存在まで異様になってくる仕掛け。しかも終わる音を察知して「あのコもそろそろかも……」とまで言わせる。
 あるいは164頁の例でもいい。りりこの要求を「飲んだ」羽田・空のグラス、直感的で直接的な比喩だ。242頁の零れ落ちるコーヒーが血のような感触を持って描かれる描写でもいい。絵で訴えてくる場面があちこちにあって、読者は言葉以外からも作品で何が描かれているかを、仮に言葉に表現できなくても、少なくとも感じることが出来るし、感じさせるために岡崎は暗喩などを多用したのだろう。
 私自身の感想では、中島敦「山月記」を思い出してしまう。タイガー・リリィからそちらの方面を連想した人もいるだろし、私のように虎からそれを思い出した人もいるだろう。自身が飼い太らせた尊大な羞恥心と臆病な自尊心・虎によって「山月記」では本人が虎になってしまうが、りりこは虎に食われる。麻田の「タイガー・リリィ」の真意を悟ったりりこの229頁最後のコマで大きく見開かれた目には、一体何が映っていたのだろうか。
 ジェニー・ホルツァーは自身の作品を街中の電光掲示板やポスターで発表した。作品の鑑賞者は美術館などのようなおよそ芸術的な場所で作品を見ることはない。ニュースや株価、天気予報などが流される電光掲示板に唐突に現れる彼女の言葉は、ある者には警句であり、ある者には情報であり、ある者には記憶にさえ残らないし、ある者には強烈な印象を植え付けるかもしれない。「PROTECT ME FROM WHAT I WANT」、私の欲望から私を守って。まるで本作に挿入される印象深い言葉のようだ。横書きの箴言のような言葉は、ひょっとしたらホルツァーの行為を模倣した結果なのかもしれない(……んなワケないか)。そこで最後に、岡崎も引用した「扇情的なエッセイ」の一部を抜粋しよう。
「私をバカにするな。私を親切にするな。私を気持ちよくさせるな。リラックスするな。私はあなたの笑顔を断ち切るだろう。」
 りりこの欲望ってなんだったんだろう、りりこは何から守ってほしかったんだろう。彼女の誰にも理解されない自己否定や拒絶と同居する自尊心に、私は打ちのめされた。

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