「蛍火の杜へ」

白泉社 花とゆめコミックス

緑川ゆき



 6冊目の単行本にしてついに緑川ゆきは傑作を得た。2002年ララDX7月号に掲載されたときの評判を聞き及んでいただけに待ちに待った単行本化である。膨らむ一方の期待を決して損なわない、それどころかさらに感動をもたらしてくれた本作は緑川氏の代表作になるだろう短編である。
 夏休みに祖父の下へ遊びに来た少女・蛍は、妖怪達が住むと言われ恐れられている山神の森に迷い込んでしまうが、突如現れた狐の面をかぶった好青年・ギンに助けられる。人の肌に触れると消滅してしまうという幽霊とも妖怪ともつかないような存在のギンに惹かれていく蛍は、毎夏、わずかな時間のほとんどをギンとの交流に注ぐことになった。成長する蛍はギンへの想いをやがて自覚し、高校生の夏、ギンの誘いで妖怪達が集う夏祭りでデートをすることになった………うーん、あらすじ書いただけで感動してしまう。切ないってのが最も適当なんだけど、二度三度と読んでどんどん感動が濃くなっていく。見せ場である92・3頁の見開きのいろんな情動が詰め込まれた抱擁シーンと直後の次頁の消滅の落差が涙を切って落とせしめる(実際に泣いたわけではないが、心の中は感嘆しまくりの涙)。
 正直言えば、冒頭の展開である程度こんな話だなってのを予期していた、それもこんな場面があったから。いたずら盛りの蛍はある時、木に登ってギンをわっと驚かすんだが、次の拍子に枝が折れて落ちてしまう。ギンは手を差し伸べて受け止めようとするも、「あぶなかった」と手を引っ込めるわけ。最後は蛍を助けてギンは消えるんだろうなって完全に思い込んでしまったのだ(そこまで勘違いしなくても、多くの読者はギンが蛍に触れて消滅って予想したのではないか)。もともとミステリー調の作品が多いだけに、これは作者お得意のミスリードってわけなんだが、もうそんなことすっかり忘れてて作劇のトリックにはまっていた。伏線は別にあった!てのに驚いた。しかもいくつも冒頭の振りを踏まえた演出がラストでほどこされており、何度も読んでしまった。巧すぎ。緑川節炸裂の独白も余韻を爽やかに締めくくる、切なくて切なくて沈みかけた感情を彼女の前向きで強い心「さぁ いこう」が読者に微笑をもたらしてくれる。こういうのをさらっと描けてしまう緑川氏の才能は是非とも大事にしたい。こんなこと書くのも、同時収録されている他の三編のうちの一編「花唄流るる」の作画がかなり荒れているからなのだ。もとからモノローグを多用する作家だが、絵が雑でなおかつ書き込みが少ないせいか言葉だけが先行し、上手いとは強くいえないけれども妙に雰囲気ある絵の印象が薄くなっているのが残念でならない。締めくくり方には唸ったけど、それも演出力で補っているんだよな。
 で、「蛍火の杜へ」の雰囲気ってのがとにかく素晴らしい。「アツイヒビ」同様に夏が舞台だが、森の中の鬱蒼とした様子が少ない線で何気に描写されているのがたまらない。なんだろうね、ほんとに不思議な感覚。これがファンの贔屓目ってものなのかな。作者があとがきで書くようにベタとトーンの多用が夏の明るさを強調しているんだけど(誰が最初にはじめたか知らないけど、強烈な日差し・明るさの表現にベタを使うっていう発想がすごいね、明るいから白っぽいんじゃなくて明るいからこそ影が多いという表現の発見、日常の経験から夏の影は濃いって印象が皆あって、それを利用しているんだね。漫画の表現っていろいろ奥深いものだ)。
 さてしかし、本作を傑作足り得ているものである重要な伏線、というと意味が違うので、韻を踏むとでもいおうか、前半で散りばめた印象深い場面をクライマックスの展開で再度描写しつつ意味を変え価値を変えて盛り上げるってのがすさまじく凝縮された間隔で読む者を圧倒してくれる快感がある。まず、54頁「何かデートみたいですねー」の台詞と木の棒が85頁「デートなんですねー」と二人を結ぶ手ぬぐいに変わる、いずれも迷子にならないために用意された小道具、一方がいつでも放せるもので一方は互いを感じられる距離の中という変貌が二人の心の距離感を見事に表現しているが、これはほんの軽いジャブに過ぎない。次に57頁祖父との会話・妖怪達の祭りにそれと知らず迷い込んで人間の祭りと勘違いしてしまう少年時代の逸話は、85頁「岩ちゃん達のことね」と納得する蛍に読者もこの祖父の言葉を思い出したことだろう、これは89頁にもつながっているわかりやすい演出だがこれも様子見のジャブ。3つ目が強烈なフックとなる60頁の妖怪、「ギンに触れてくれるな」という彼らがギンを大事にしているのは、ギンが捨て子だったという事実につながり、これは親にはもちろん人にも抱きかかえられる記憶なく死んでしまったギンだからこそ、人に抱かれたいという感情が特別なものであり、そう思えたときがギンが成仏できるときだと知っていたからなのだと思う。ギンがかような存在になった理由にさえ物語を意味づける言葉にしてしまう・つまり設定にも抜かりがないのである。人に触れると消滅するっていう設定は単なる思い付きではなく、助けたくても手を差し伸べられない状況であり、抱きしめてたくても出来ない葛藤であり、だからこそ抱きしめあった二人に読者(というか私)は感動するのだ、91頁の面をはずそうとする蛍も効果的、泣き笑いかと思ってたらとびっきりの笑顔だもん、切なさ・悲しさがこのクライマックスには微塵もないのだ、でもせつねーったらありゃしない。この登場人物と読者の感情の落差はどうだろう、いや、実際悲しさはあろう、90頁の蛍の口元はギンが消えるという衝撃にうろたえ気味なのだ(表情の描写は上手いのだよ、この作家は)。4つ目が蝶、73頁、ギンの近くでひらひら舞う。いつまでも変わらないギンの心や姿に対し、自分はいつかギンの年齢を超えてしまうだろう、いつか他の男の子を好きになるかもしれない、という思いがギンへの恋情を強くしていく。最終頁、蛍の額の上を舞う蝶、この蝶に読者は様々な思いを感じるに違いない。身体も心も成長し、ギンと遊んだ頃にはもう戻れない、だからといって後ろ向きにはならない。少女の頃のギンと戯れた夏の日々の気持ちだけは忘れないという決意、すべてのささやかな事象が思い出になっていく瞬間。そして、ギンがいなくとも迷子にならず森の中を抜けられたのも、妖怪の道案内の可能性もあるが、私は蝶が先導したと思っている、いや、そうに違いない。(本当はギンの蛍火を辿っていったからなんだろうけど……)。
 5つ目の強烈なアッパーカットがラスト「いきましょう」だ。まいった。どうだい、この積極性。冒頭で「心を惑わされ帰れなくなる」「行ってはいけない」と村の人たちに語られる森、蛍は確かに惑わされた、行ってはいけない領域に感情を突き動かしていった。ところが、ギンも惑わされていたのだ、忌むべき人間に彼は図らずも心動かされていった、「人込みをかきわけてでも 蛍に逢いに行きたくなるよ」とまで言う彼の惑わされよう、行ってはならない人の世界に行ってしまった彼の思いはあまりに忍びない。登場人物二人の見事な相乗! 蛍視点で読んでいた読者も、見せ場になってギンの本音を知らされるや否や感動も倍になるってもんだ。(ちょっと難癖つけると、89頁の子供が後ろから走ってきたのに振り向いて見送ったり、蛍の右腕はギンと手ぬぐいで結ばれていたんじゃなかったっけ……という気になる描写があったけど、それを問題にしない強さがこの作品にはある)
 あー、素晴らしい。こんなもの描いちまってその後は大丈夫なんだろうか。次の本が出ても期待しすぎて読むのが怖い気がする。これだけで今年の緑川は十分って感じがしないでもない。けれど読まずにいられない理由は、緑川の作品にすっかり惑わされているからなのだ。行くしかないのだ。行きましょう。

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