服部昇大「邦キチ!映子さん」

ラブコメの萌芽

集英社 マーガレットコミックス



 映画について語るマンガが増えて嬉しい昨今、その語り口に少なからず不満があったわけだが、 服部昇大「邦キチ!映子さん」は、 「邦画プレゼン女子高生」と簡潔明瞭に主人公のキャラクター設定を単純化したことで、好きな映画の説明をしているだけでキャラクターが成立する短編力とも言える効果を発揮している。彼女の話を聞く相手が洋画大好きな先輩高校生、さらにアジア映画大好きなキャラクターと、描き分けも明確とくれば、各々のキャラクターの役回りが瞬時に理解され、映子さんが面白いと力説する映画の数々が、どういうわけか、本当に面白いものに思えてくるから不思議である。
 キャラクターが単純である故、物語も副題のとおり、映画の内容を説明・プレゼンするだけというシンプルさ、彼女の説明に先輩がツッコミを入れるという構図が自然と成立しているわけだが、彼女自身はボケのつもりではない。映画で描かれていた出来事を本当にそのまんま説明しているだけに過ぎないのにどういうわけかボケになっている、というのが面白さの重点だろう。未鑑賞者は先輩と一緒にツッコミ、鑑賞者は映子と一緒に本当なんですよと説明する。どちらの立場に立っても面白いのが、この作品のキャラクター配置の妙である。
 映画鑑賞を通した物語を構築する場合、映画から受け取る感想は当然、人それぞれである。そのために、説明者のキャラクターの感想が読者に嵌ればいいけれども、そうでない場合、そのセリフに共感できないという現象が起きる。マンガは基本的にキャラクターが絵と言葉によってコマで構成される物語である(細かな異論はあるだろうが、マンガ評論家やマンガ研究家のマンガとはなんぞやって解説は、たいがい、絵と言葉とコマであることが多い。絵がキャラクターに置き換わっていたりとかね)。映画とマンガの構造的な違いなのだが、映画の場合は、スクリーンと観客はほぼ固定されている。そのため、映画の中には観客と立場を同化させる装置が演出として組み込まれ、感情移入をもたらす効果が期待されている。マンガの場合は、読者との関係性は固定されているとも言えるし、いないとも言える、微妙な関係性だ。その点は小説に近いだろう。そのため、マンガでキャラクターに共感する、ということは、そのキャラクターと同じ立場に立たされたというよりも、同じ感覚を共有した、という感覚の方が勝るのではないかと考えている。まあ、個人的な考えなのでマンガも映画みたいに事件を目撃するキャラクターの視線を描くことで、読者にも感覚的に事件の目撃者を疑似体験させるみたいな演出も可能だろうが、映画より感情移入度は弱くなってしまうと考える。それを補うための言葉というマンガの一要素があるわけだが。
 何を言いたいのかと言うと、「邦キチ!映子さん」は、読者に感情移入させるシンプルな設定を、プレゼンという言葉によって、容易に刷り込ませているということである。映画で描かれていたことを事実そのままに伝えることで、映子さんにそのとおりなんだよと共鳴したり、あるいは何故そのシーンを切り取って説明するの?と突っ込んだり、先輩の立場(つまり未鑑賞者)であれば、本当にそんなシーンがあったの?と多くの読者が思う言葉を選んで淀みのないツッコミを入れることで、自然とキャラクターと読者の間に対話が成立しているのである。
 例えば第五話の「箱入り息子の恋」。星野源主演映画で私は競演した夏帆目当てで劇場で鑑賞したのだが、本作の説明の通り、「逃げ恥」と設定がとても似ている。ともに35歳童貞、彼女を演じるのが夏帆、逃げ恥が新垣結衣とどっちも美人(異論は認めない)、真面目なサラリーマン役。「箱入り」のほうは公務員だけど。で、「箱入り」は心配した両親が見合いを計画して、相手の夏帆演じる女性と出会い、恋に落ちるというストーリーラインとしてはとても単純なんだけれども、彼女は目が見えないって設定を加えることで、大杉漣演じる彼女の父が、あんな冴えない男では娘は守れないと交際に反対するわけだが、惹かれ合っていく二人。彼はある声によって彼女と落ち合い、本作で「何故そこを切り取って説明する(笑)」と総ツッコミを受けるだろう、「全裸で走り回るシーン」に至るのだが、そのシーンの前に、星野源と夏帆の全裸の濡れ場があって、そこに大杉漣登場、激怒して星野源を追いかけまわす、というのがかの説明の概要であるが、それでもそれってどんなシチュエーションだよって思うだろう。でも、そういうシーンがあるんだから仕方ないじゃないか(ちなみに「フレフレ少女」も劇場で観てるぞ!)。
 本来であれば、欠点として語られてもおかしくない映画の評価を逆におもしろシーンとして語りなおすことで、つまらない映画でさえ面白そうに思えてしまう。まして観ていない読者にとっては、それが欠点かどうかなんてわからないから、突っ込まざるを得ない、自然と先輩の立場になってしまう。先輩の言葉を平凡にする、「普通のことをいうが」と先輩自ら言う通り、平凡であればあるほど、そのツッコミの言葉は多くの読者と共有されるだろう。
 もちろん面白さはそれだけではない、やはり映画の切り取り方にも選択眼が光るというものだ。映子本人にその意識はなくとも、作者の意識が感じられるのが「貞子3D」である。もちろんこれも劇場で観たわけだが、「3D」と付く通り、ホラー映画としての本作の売りは、当然3Dである。立体視メガネを描けて鑑賞に臨んだほとんどの観客は、ホラーではなく、ただのビックリ箱を体験したに違いない。何回もおんなじ驚かし方をするもんだから、はいはい、そろそろ来るんでしょあれが、とわかってくるんだが、劇中の説明の通り、貞子が蜘蛛になるのも結局のところ、従来通りのゆっくりとした動きでは3Dの特性を活かせず観客をびっくりさせられないという安直な理由かどうかは憶測でしかないが、素早く動いて観客を驚かすってのに重点が置かれているらしいのである。けれども、「邦キチ」では、この3D部分については一切触れていない。ネタバレになってしまうのもあるだろうが、ひょっとして、劇場で観ていないのかな? とも勘ぐるものの、蜘蛛貞子に焦点を当てて先輩に突っ込みまくられるくだりは、笑わずにはいられなかった。
 さてしかし、本編の魅力はそこだけではない。単純な設定によって作られたキャラクターだからこそ生まれる物語がある。映子と先輩の関係性だ。たった一人で立ち上げた映画を語らう部に入部した映子、男女二人の高校生が映画について語り合うのだから、そこになにかしらのドラマが生まれても不思議ではない。もちろん、そんな期待は読者の勝手に過ぎず、本編は粛々と漫才のように映画ネタを繰り出していくのだけれども、物語を積み重ねることで、キャラクターに「邦画好き」という設定だけでなく、読者側がいろいろな想いをキャラクターに込めていくのである。
 ガチガチに設定されたキャラクターであれば、このような想像の余地は少ない。だが、女子高生であることと邦画好きであるという、それだけのキャラクターだからこそ、いろいろと設定が付加される余地がたくさん残されているのである。連載が進めば進むほどに、二人の関係性は、やがて映画ネタを巡るラブコメにまで発展するかもしれないのだ。

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