「複雑な彼女」

講談社 アッパーズKC「フェティッシュ」より

田中ユキ


 田中ユキは恐ろしい漫画を描く。快楽と破滅が共存している登場人物たちを臭くもなく衒いもなく、読者の興味を一頁ごとに訪れる緊迫感を損なうことなく台詞や絵の中に閉じ込めてしまう。気付けば主人公の感情に同化した自分を発見して思わず戦慄する。
 さて、「複雑な彼女」である。二冊目の短編集「フェティッシュ」に収載された50頁ほどのこの作品が私の心を捕えてしまった訳は作品の質云々よりもまず先に収録された順番にある。表題作「フェティッシュ」、この読後感が大きい。主人公の男子高生が家庭教師の女子大生と関係を持って、というくだりから性描写を煽るような展開でないのは鼻からわかっているが、女子大生の彼氏と主人公がどういう決着をつけるかと思いながら読み進めると、なるほど、実に堅実な物語が終盤まで練られている。しかしながら、主人公の切ない恋愛物語という単純な終わり方を拒否するのが田中ユキの面白さである。予想された展開の中にあって、最後の最後で読者を裏切る破綻の仕方は、いつまでも子供扱いされていたことに憤っていた主人公が選んだ別離が結局のところ全く子供じみた手段(母親の介入)であることに、「仕返しです」という主人公の幼い表情に慄かずにはいられないのである。本来あるだろう彼氏との修羅場を描くことなく、主人公に成長もなく学習もなく、ただ虚しい読後感と同時に作品から突き飛ばされたような客観性・心が晴れたという主人公とは正反対の気持ちに、ほとんど怒りめいた、裏切られた感覚を味わってしまうのだ。引き寄せるだけ引き寄せて最後にひっぱたいて突き放すのが田中ユキ作品の飽きない魅力であるわけで、表題作にふさわしい、らしい作品である。で、次に読むのが「複雑な彼女」なのである。作者か編集か、どう決めたか知らないがこの収載順は絶妙である。
 主人公は高校の先生・後藤で、対するはその生徒・絵美である。「フェティッシュ」と逆の設定、これだけでもう絵美に何かあると疑わずにいられない、子供じみた振る舞い・馴れ馴れしいくらいの言葉遣い・好意の押し付けがましさ、なにもかも彼女の策略ではないかと勘繰ってしまう展開に、主人公同様に「からかわれた」のではないかと感じる。とにかく二人の関係がどうなるか、破滅に近い形で終わるだろうと読み進めて前半の終局で絵美が狂信的にまで後藤を愛していることを知らされて、こりゃただごとじゃないぞと読者もようやくここで後藤の恐怖(99頁)の正体を目の当たりにするわけだ。そして再び誰彼かまわず関係を持つようになる絵美を予感させて後半の展開になるのだが、ここから絵美が後藤を追い回す構図が逆転してしまう、後藤の語り口でありながら、絵美が後藤について語っているような錯覚がだんだんと増してくる。物語は前進しながらも前半の内容をなぞるような展開で、つかまるわけにはいかないと逃げていたはずの後藤がいつの間にやら絵美を追いかけている、しかもそんな状態を野暮に説明せずに場面ごとの人物の表情で描ききってしまうから、巧い。その決定打が109頁3コマ目の絵美と125頁下段の後藤、この対比、計算されつくされている。驚愕のうちに言葉を失う二人の状況、それに加えて126頁右半分ぶち抜きのコマの構図が素晴らしくてクラクラした。上から下へ移される視線はまさに後藤のそれであり、少なくとも次の頁に何が描かれていたかは誰だって予想がつくはずだ。だからこそ唸った。冒頭と比べれば、場面転換の緊張感は雲泥の差である。絵美が本を破り捨てる場面は突拍子もない割りに、ただただ彼女の気味悪いほどの精神を過剰に演出するにとどまっているが、このコマだけでもう先の紙吹雪を越える異常さが現出してしまったのである。読者と後藤の距離がここであっというまに縮まってしまう、「破滅しましょうか」という絵美の台詞がよみがえり、後藤の態度にかかわらずひとり壊れていく絵美を前に後藤はなすすべなし。
 ところが、ここで「ある日とつぜん」だ。なんで「ある日」なんだよ、それではあの日から何があったかわかりゃしないよ。絵美の気持ちを受け入れて、さてこれから婚約者とどうけりをつけるかとか、絵美との学校生活がどう描かれるかって時に、「次の日」ではなく「ある日」なのである。この間があまりにももったいない、惜しい。急展開は急展開である、確かに。だが、ある日、という単語ひとつで「フェティッシュ」で見せたわずかな安穏さえ拒む展開に隙が生じてしまったのだ。絵美が学校を去らざるを得ない状況になって追い込まれた後藤がいよいよ決断をする場面、予想し得なかった展開だけに、あの間がなんか悔しいね。
 でも、この作品の個人的な評価に影響はない。それはラストがいいからだ。一緒に破滅するだろう後藤と絵美を余韻としつつも、全然切なくないのである。疲れて絵美に捕まった後藤とは違う意味だけど、私もそれまでのどろどろした展開に読みつかれて、実際この短編集は三日に分けて読んだ次第で一気読みできなかった臆病者であるが、やっと落ち着いたかと安堵してしまったのだった。
 それにつけても日常の有り体をことごとく壊そうとする非日常性の物語の連続はほんとに疲れるよ、くれぐれも長編を描かないでくれ、田中さん(だからといって日常とは何ぞや、という問い掛けもなく、作者は物語らしい物語が心から好きなんだろうなー)。


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