自虐の詩

竹書房文庫 上下巻

業田良家



 幸江の人生に焦点を絞っていったところが、この漫画の優れたところだよね。正直な話、イサオみたいな男って、たとえフィクションだとしても許せないんですよ。それを慕う幸江にも不愉快だったし。まあ、所詮は呉智英氏のただならぬご推薦に感化されて読み始めたわけで、どこから話が盛り上がるんだろうかって黙々と読み進めていた。普通に竹書房版を読んだのだが、当初は普通に面白いなって感じだった。イサオが時折見せる幸江へのほのかな愛情が描かれると、やたら苛々して、ひょっとして二人の愛情がどうのこうの言うんじゃないだろうな、と「名作」と聞かされて読んだ者特有の邪心が大きくなっていく。むしろ悲惨な幸江の言動にちょっと微笑する程度で、ギャグ漫画という意識は希薄。あさひ屋のマスターや隣のおばちゃんが活躍する頃から、作品上の幸江とイサオの立ち位置がはっきりしてきて読みやめられなくなっていった。
 他人からはどう見ても不幸な幸江が中心にいて、登場人物がぐるぐると回っているような感じで、読者も周回しているんだけど、それが唐突な幸江の過去の回想(ドラキュラ呼ばわりとか父の登場とか)で読者はイサオよりも幸江に接近してしまう、最初のきっかけは冬の日本海を回想するあたりかな、ここで悲惨な過去しかない・でも本人はわりと元気な過去の物語が沸いてきたのだろう(BSマンガ夜話でいしかわ氏はこれを「発見」とたとえるが、これは言い得て妙。幸江の物語が次々と発掘されていくくだりは壮観である)。
 ひねた読み方をすれば、幸江の子供時代を提示することで現在の彼女の不幸せな様子が読者にのみ際立ってくるということに加え、現在の話だけではネタが続かなかっただけということも考えられる。机をひっくり返すのがオチになった頃があったけど、上巻の前半くらいで結構な行き詰まりを感じたんだよ、私は。この調子では読むほうが辛いなと。そんなところに幸江の少女時代の4コマがぽんと挟まれるのである。俄然幸江の存在が輝き始めた、ニコニコしているところにいきなり石投げられドラキュラ呼ばわり、これこそ発見である。こいつドラキュラに似ているじゃん、という発見、それがあだ名となれば当然いじめられるという流れ、ここで物語への注目度が一気に増すのである。読者側としては普通に今までの彼女の言動に色が付くし、これからの彼女への視線にも色が付く、色というは、たとえばイサオみたいな男をなんで愛し続けるのかといえば、過去にこんなことがあったからというような想像の幅。作品から受ける感情がひとつ深くなるとでも言えるだろう。
 で、そういう想像の幅をどんどん広げていった下巻の展開ですよ、あなた。いやー、すごい。あのね、幸江の中学生時代の最初の姿(上巻125頁)は三つ編みにリボンをつけている、顔もおばさんっぽいし。まだいじめられていた少女時代としての彼女しかいないわけだ、この時点で。しかもひとつのネタとして用いられている段階だから、やがて小学生時代の物語が次々と披瀝されても、今も昔も不幸な人だなというというような感覚しか持てない。ところが、ここでまた大きな発見がなされるわけである、母の登場だ。
 母の顔を知らないという発端から、「私を愛してください」というそのまんまの言葉が何気に挟まれ、不幸感が消え、替わりに他の物語が立ち上がってくる、幸江の人生である。それは非常にゆっくりとした速度で立体化していくので、読者に気付かれない。少しずつ描写を重ねていく、この効果がでかい。コマ漫画の制約に加えて急展開まで抑制し、作者は自覚的に幸江の物語を赤ん坊から描く、それでいて娯楽の要素を忘れない・つまりギャグ漫画としての体裁を失っていない点も素晴らしい。私は下巻の冒頭であっという間に幸江に捉えられてしまったのだ、もうイサオが出てきても腹が立たない(彼自身は嫌いだが)。感情移入とはまた違うけど、目が離せない吸引力が画面からじわじわとにじみ出ていて、気が付いたらひねた雑念が霧散していた。この化学反応の結果はラストで明らかにされるのだが、この触媒には作者のもうひとつの自覚的な描写があった。幸江の顔である。
 それこそ当初の少女時代は、おばさんっぽい顔をそのまんま子供にしたような顔で描かれる。現在の姿から想像した過去の一場面、だから子供っぽいかわいさが薄い。子供から成長した姿、という感覚も当然薄い。それを作者はちょっと壊すのだ、人生を分厚くするための作業として子供の姿を完成させる、現在の顔から一端離れて作り直す。彼女の人生を描くことによって、過去があるから現在があるという単純な理を直感的に刷り込んでいくのである。だから顔も子供っぽさを残したまま中学生時代に突入し、成長していく様子が提示される。そしてさらに成長した幸江の姿は、作品当初の貧相さが消え、かわいさを残したままに人生を感じさせる顔になっていくのである。
 類型的なキャラクターとして描かれていた一人の不幸な女という上っ面の描写が、後半幸江として構築されていき、一人の人とし立体化した、するとどうだろう、上巻でネタとして扱われていた彼女の行為全てに何か意味があるような感覚、少なくとも理由が見えてくるではないか。読者によって色合いに差はあるだろうけど、知らず知らずに読者は幸江の人生について考えていくのだ。彼女の悲しさとか、嬉しさとか、切なさとか、楽しさとか、いろんな情感が一緒くたになって、だから彼女の今がある、という視点に落ち着く。彼女の周りを回っていた登場人物たちへの視線が優しくなる・というよりも受け入れらる、嫌いだけど、こういう奴の存在は否定しないとでも言おうか。そしていつの間にかそこに加わっている小学生時代の彼女、中学生時代の彼女は、現在の彼女の強烈な光を受けて、鮮烈に輝くのだ。
 ラスト? いや、泣きはしなかった。泣いたっていうのは漫画を薦める上でとても簡単で効果的な煽り文句だけど、そんなことばかり語るのはもったいないだろう。泣かない・泣けなかったから云々ってのも、だから何? てな感じだ。そういう視点はもういいんですよ。
 泣いた泣かないはもういい。どちらにも等しく価値がある。この漫画には明らかに意味がある。なんちて。
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