「神様なんて信じていない僕らのために」

講談社アフタヌーンKC

遠藤浩輝



「遠藤浩輝短編集1」収載の三作のうちで一等旨くて読み甲斐ある作品は「カラスと少女とヤクザ」ですが、荒削りでありながら軽さと重さの不安定感が奇妙に名状し難い笑いを頬に刻ませる作品が「神様なんて信じていない僕らのために」です。
 とにかくおかしな物語です。いや、これは私だからかもしれませんし、私が10代にこの作品を読んでいれば間違いなく大感激して傑作だと吹聴したでしょう。それくらい劇中劇の内容は印象深いものです。客観的にこの作品を評すれば、劇中劇とそれ以外の描写の境目がないし、公私混同よろしく終始一貫して同じ調子のためにメリハリがなくなっていますから、つまりですね、田島が書いた劇の脚本と作者・遠藤が書いた作品のネームにけじめがないのです。作品の沈鬱な内容を考えれば、どこかで軽薄な描写を交えて読者の感情を崩さない・明も暗も見分けられる状態に保つ必要があるわけなので、時折見られる照れ隠しのようなゲスで青臭い会話も理解できますけど、それは現実の彼等と劇中劇をそのまま軽さと重さに対比して描けばいいわけであります。もちろん、これは好みの問題なので実に不毛ですし、批評は苦手なので感想に戻りましょう。
 で、今の私が何故この作品におかしさを感じるかと申しますと、神様の話が出てくるからです。ちょっと居丈高な口調になりますが、この劇中劇ははっきり言って浅慮です。神様を信じるか否かというところで語り合っているのが私にはどうにもなじめない。まだまだ背伸びしていた頃の変に哲学染みた10代の自分を思い出してしまって、憫笑してしまうのです。あー、そういえばおいらもあの頃神様がどうのこうのと考えていたっけなー、と世の中を表面的には悲観しながら自分の将来には楽観的だった未熟者の私(今も未熟者ですが、当時よりは幾分成長したつもりでやんす。)を思い出してしまいました、これは物語の終盤・片寄と草野の会話(227頁から228頁)と通じるところですね。
 遠藤は私より数多くの音楽や映画と小説・心理学に精通しているでしょう。しかし、これは読んでいないでしょう、これについては考えていないでしょうと思われる本・学問が思想小説「死霊」(「しりょう」ではなく「しれい」と読む。)と宇宙論です。宇宙論については他の感想文でも触れていますが、これを学んでいれば「死んだらそれまで・無になる」というセリフは劇中で否定されたかもしれません。さらに「死霊」まで読んでいたとしたら、全く違う作品になったかも知れず、それはそれでちょっと悲しいですな。
 さて、ビッグ・バン宇宙論が登場してから随分長い間問題になっていたのが、そもそも何故ビッグ・バンが起きたのか? という根本的なことでした。神様を認めたくない学者はあれこれと理論を考えましたが、結局それは棚上げされたまま理論だけが次々と定義されていきます。そんななかで死んだとまで言われて影を潜めていた神様が再登場します、「ビッグ・バンは神が起こした」という考えです。しかし、この考えもあっさりと覆されます。車椅子のアインシュタインことホーキング博士の理論、虚数時間です。ここまで来ると私には全然理解できません。そもそも虚とはなんでしょうか。
 劇中語られる「無」の世界は、実はなにもありません。死んだ彼らは無の世界の住人になってしまう・・・この安易な考えこそ盲目であります。無には、あらゆる世界も言葉も情念も幽霊もありゃしませんので、無から無は生まれません、想像さえ出来ません、物理学者が悩んだところも、無からいかにして宇宙が生まれたのかということにばかり気を取られていたからです。
 私たちは実在しますが、実の反対はなんでしょうか? 無ではありません。虚実という言葉がある通り、実の反対は虚です。虚という概念はたとえようもないのですが、「死霊」はたとえて言います、「のっぺらぼう」と。妖怪やお化けのなかで、一際異彩なお化けがのっぺらぼうです。なにもないのに怖い、いや、なにかあるんです、そのなにかが虚なのです。虚は無ではないので何かあります。この作品の残念な点はそこなんです。死んだら「無」、実に単純です、さらにその先を見詰めれば「虚」に出会えたかもしれないのに、そこで行き止まり。虚数は英語でimaginary number すなわち想像数です。想像すれば更なる深みを覗けたかもしれない、想像すれば・・・想像したものが実在するのかもしれない・・・(「死霊」の作者・埴谷雄高は想像とは言わず、夢といっています。)
 神を信じない代わりに彼らが信じたものが「死んだらそれまで」だとしたら、実に救いがありません。いや、神を信じている人でさえ経験則から神に祈ったところで苦しみから解放されないことを薄々承知しています。どっちもどっちのようですから、せめて寛容になって努力しようというわけですが、さーてさて、そうは問屋がおろさない。何かを支えにしなければ力強く生き抜くことは出来ないでしょう、信仰は人間にとっての麻薬みたいなものかもしれませんから。しかし、何かを信じた瞬間に、思考もそこで途絶えてしまうのであります。遠藤がその先について考えない限り、「EDEN」に救いは訪れないでしょう。

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