独りぼっちの匂いは黒髪ロングに溶ける

原作:新海誠 漫画:山口つばさ「彼女と彼女の猫」

講談社 アフタヌーンKC



 東京で一人暮らしをする黒髪ロングの彼女がある日橋の下で拾った猫との日々を描く冒頭、穏やかな時間が流れる描写が続く。近くの高架橋を渡る電車の音、鼻歌を唄いながら洗濯物を干し、日向ぼっこをしながら猫を抱えて読書をする。これら余裕のある描写を散りばめつつ、不意に母親からの電話が鳴った。他愛ない会話なのに、どこか不穏な気配を察する猫のモノローグが物語を牽引する。そう、この作品の主人公は、彼女ではなく猫である。
 白猫の彼は、黒髪の彼女とよく映える。夕飯を食べるテレビの向こう側からの音だろうか、あるいは彼女の回想だろうか、母親の再婚が話題に上がる。ご飯の美味しさに打ち震える彼女に、その話題は流されたかのように思えたが、猫の能天気なモノローグがかえって、彼女に忍び寄ってくる孤独感を少しずつ実感させていく。ノートパソコンを開き、誰かのブログを読む。おそらく母親かその相手のものだろう、記事で結婚の報告をしていた。風呂上がりの少し水気を帯びた艶やかな黒髪をぼさぼさに眼鏡を掛けた彼女の姿は、猫の言うとおり綺麗で美しいのだけれども、これまでの不穏な気配が、彼女の言葉によって明らかにされた。
 世界で自分だけおいてけぼりをくらっているかのような感覚。現実になじめない自分。猫への笑顔は虚勢でしかなかったのだ。もちろん猫は理解できないが、彼女の無表情さから、困っている様子を察する。だからと言って、猫が何か彼女の悩みを解決するために奔走するわけではない。猫は猫なのだ。
 飲み会から帰った彼女に対しても、焼き鳥の匂いや煙草の匂いに他の人間の匂いが彼女から漂ってくることで、彼女の部屋でありながら、彼女だけが浮いているような感覚を猫は生意気にも吐露する。彼女の部屋からも拒まれたかのような錯覚が猫の言葉によって読者に知らされることで、本格的に彼女の孤独が強調されていくのだ。
 これらの匂いが黒髪ロングから発せられるのは明らかだ。絡みついて離れない異質な匂いが髪の毛に特につきやすいのは誰もが経験があるだろう。世間の匂いとでも言うべきものが、彼女にとって苦痛でしかないことは、彼女の数少ない言葉から察することができる。仕事の悩み、上司の叱責、飲み会の憂鬱、言い寄ってくる男の影、それらがひっくるまって彼女の静かな日常を脅かす。
 でもやっぱり、猫は猫なのだ。彼女の美しさに魅せられた彼は、にゃーにゃーと甘え、外に出ては女友達の猫とイチャイチャしながら、でも僕には大人の恋人がいるんだと、どこまでも図々しい奴でしかないのだ。彼女と猫は一緒に暮らしながら、全く異なる感覚を抱いて生活をしていた。
 母親の再婚の報告に加え、結婚して新婚生活を楽しむルームメイトとの久しぶりのランチもいたずらに彼女の孤独感を煽るだけでしかなかった。
 家に仕事を持ち帰って徹夜に近い状態で出勤したある日、彼女は仕事で大失敗をする。挽回すべく彼女はさらに無理を重ね、やがて彼女の母親が優しく、彼女の孤独を決定づけた。
 新海誠の映画においてしばしば注目される映像美・特にその風景は、この作品では鳴りを潜める。あれらは、やはり映像と音による表現だからこそなしえる賜物だろう。残念ながら山口つばさの作画にその気配を感じ取ることは難しいけれども、室内の描写を精緻に描くことで、彼女がどんな暮らしをこの部屋でしていたのかが窺える。少し質素な室内に、姿見、箪笥、キッチンや電子レンジなどなど、生活感が読み取れる。ルームメイトの女性とのツーショットの写真が特にその存在を主張した。大事な友達であることが推し量れるのだが、その当のルームメイトも結婚してしまった。そして、母親である。
 その電話が鳴った時、彼女は立って応答するのだが、「え?」という母の報告を聞いた次のコマで、彼女はぺたんと座り込んでしまう。正確には、ただ座った絵が描かれるだけだ。新海の映像表現を支える音・擬音も一切描かれないけれども、その動作の変化によって、彼女の落胆が描かれた。明るい画面からは意想外の別次元に実は移行しているのである。だが、その真の意味を彼女は理解していないし、猫も読者もまだよくわかっていない。カーテンによって遮られながらも厳しい秋の日差しが彼女の顔を照らす。状況を淡々と積み重ね描くことで、いつの間にか、彼女自身の感情が、外の明るさとは真逆の世界に落ち込んでいることが知れる。続けて倒れたイスの1コマが描かれる。倒す場面が描かれるわけでもなく、倒れる音が描かれるわけでもない。ただ、さっきまで整っていたイスが、倒れている。ひとコマ、それを挟むことで、彼女の衝動を物語るのだ。
 電話の内容はわからない。猫がわからないのだから、読者も知るところではない。だが、彼女の言葉から、おそらくそれが母親の妊娠であることが推測できる。長い髪をクシャクシャにしてうずくまる彼女と、何かとんでもないことが起きているのかもしれないと彼女を見つめる丸まった白猫の見開きが、彼女の全ての感情を奪い去るに十分な描写である。目を見開いた猫の、すっとぼけた表情が、事態の深刻さをさらに煽った。
 孤独に圧倒された彼女のその後の行動は、けれども、気まぐれな猫によって救われる。あくまで猫は身勝手でしかない。ただ単に彼女の匂いを辿っただけだ。彼女の匂いから彼の匂いを嗅いだ女友達の猫が、彼女の居場所を教えてくれただけだ。偶然だし、運命でも何でもない。理由があるなら、彼は、彼女の猫だから。それだけで十分なのだ。
 世間の匂いに塗れ、孤独の匂いに押しつぶされ、誰からもあてにされない寂寥感をいっぱいにため込んだ彼女の黒髪からは、きっと彼女だけが発する特有の、猫だけが嗅ぎ取れる匂いがあったに違いない。だからこそ、彼女はそれらを洗い流し、髪を切ったのだ。でも、彼女と彼女の猫の関係は変わらない。少し水気を帯びた彼女の匂いは、ショートカットになっても変わることのない、彼女の人生に染み付いた、猫の愛する香りなのである。

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