「紀元ギルシア」 VERSION前史

チクマ秀版社 坂口尚短編集第2巻より

坂口尚



 坂口尚短編集第2巻の表題作がこれである。単行本にして一冊分に及ぶ頁数ゆえに短編というには抵抗あろう。けれども作品の中には後に傑作「VERSION」に受け継がれた主題があることを理解でき、読み捨てられない作者の精神が注入されている。雑誌休刊によって未完に終わりながらも決して中途半端な内容ではなく、むしろ多くの問題を提示した真の問題作と呼べる一品である。作画については「読んで確かめてくれ」としか言いようがないので、ここではその問題についてのみ言及する。
 作品はおよそ哲学的な主題である「言葉」についての謎をギリシァ神話の外見を借りてSF仕立てに描かれている。アポラーンの息子たる主人公・パトンがギルシアの後継者争いに巻き込まれて国を追われながらも、謎の言葉「マリンモ」を探求しつつ復讐のときをねらう、という構成だ。物語自体は、異土と呼ばれる国外でマリンモの探求を決意する場面で終わっているので、その後の展開は不明であるが、どうやら作品の鍵は「マリンモ」であるらしいことがうかがえよう。具体的なものを描写しながら、世界を構成している「言葉」とはなにか、という主題を主人公の体験を通して描くくだりがさらに秀逸、漫画として描くにはいささか難解過ぎやしないかという懸念も、漫画だからこそできる表現で実体化してしまう。暗喩を多用せずに直接描いてしまうのだから、作者の才も実感できる。
「石の花」で描かれた強制収容所の描写は、V・E・フランクルの名著「夜と霧」に負うところが多いけれども、文章をそのまま引用するという手段は用いずに作者なりに咀嚼してある場面・ある挿話として描いたり、作者の独自な言葉で詩のように言いかえられていた。言葉の感性が常人のそれとは別の次元にあり、また私たちの生を支えている言葉そのものへの違和感を常に抱いていたらしいと思われる、だからこそ「紀元ギルシア」はその感情を漫画表現に託しつつ言語化しようという試みの顕れだった。
 聖書の一節「はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。」とはこれいかに。劇中の終盤で「ロゴス(言葉)」という語が登場することから、作者がそれを意識していたことがわかるが、彼はそれをどうしたか。謎の多い人物として登場したグダンは後にパトンに語る、言葉(オン・音)によって物に名を付け、物の姿形が見えるようになっていった、と。これが例の一節と通じているわけだが、この考えが劇中では妄言であること・誤りであることは察しがつく、否定しているのだ。どういうことだろうか。
 私たちが陥りがちな論調や主張に「言葉」の罠がある。ある議論をするときに必ず行われるのが議論の核をなす言葉の定義付けだ。その意味を明確にして議論の幅を確定し、軸を固定してやっと論じ合う場ができあがる。ところがしかし、抽象的な話題になるとたちまち議論は迷走してしまう。実体化できないもの、人生とか生命とか、時間とか自由とか、そういう事柄について考えるとき、私たちの頭に浮かぶものがその言葉である。その時点でもう罠にひっかかったといってもよい、例えば「三次元」について考えてみてほしい。私が真っ先にするだろう行為は次元の定義付け、意味の確認である、辞書をひいてここで論じるそれについての範囲を確定するわけだ(下手すると言葉の意味そのものに興味が傾いて語源がどうのこうの、他の国のことばで次元を意味するものにはこんな意味があるから云々と始まればもうおしまい)。つまり、論旨の大きさにしたがって語るべき空間を自ら構築する、「ここで語ろうとしている「三次元」の問題は、ここからここまで」と線引き・壁を作っているのである。この論調だと、それまでに築かれた「三次元」を巡る考察を行うにはもってこいであるが、壁の向こう側にまで考察が発展する見込みはない、新しい見解を述べるには不向きなのである、にもかかわらず飛躍を試みると必ず壁に衝突して自滅しかねないことを延々論じかねないのだから恐ろしい。知らず知らず遺伝のように受け継がれた「三次元」というコトバの意味・すなわち偏見に蝕まれてしまうのだ。新しい論拠を示すには、言葉に縛られず壁をとっぱらう他ない。つまり、語るべき空間自体を否定するのである。そもそも語るべき場の空間は計測不可能なのだからこそ、抽象的なのだ。それを忘れて無理矢理にどこぞの座標に押し込めて、位置を明確にしようとする暴挙を私たちは結構やってしまう。抽象的な話題を推し進めるに便利な「たとえ話」も「たとえ話」のための「たとえ話」となったり、「たとえ話」自体の良し悪しに意見が費やされれば、はなしはそこおしまいであろう。
 物は名前がつけられる以前からそこにあった、人間が言葉を使って名前をつけてはじめて現れたわけではない。この空間は人間が「三次元」と名づける前から存在した、特に次元という言葉に影響されることなく、あった。問うべきは「空間はなぜ三つの次元なのか」ではなく、「なぜ空間は三つの次元なのか、と問うのか」ということなのである。つまり、「三次元」について考えようとしたときはすでに、空間を三次元と認容していることを自覚すべきなのだ。
「VERSION」と重なるが、空間についてもう少し話を進めると、この空間は、たまたま三次元だったのではなく、次元という言葉によって固定された壁なのである。それは、人間の世界は三次元で事足りてしまう、という至極単純な理由に他ならないのだからびっくり、だって、世界にいくつ次元があるのかなんていまだにわからないのだ、いまだかつてこの宇宙が三次元であると証明した者なんていないし、想像外の次元にあるもの・人間の思考を寄せ付けないのが宇宙かもしれないし、そうでないかもしれない。あくまでも「言葉」は、人間の存在を大前提とした人間の私物なのだ、と今更いうことでもないが、言葉の意味に囚われてしまうと、私は私の名前を失った途端に私ではなくなってしまう、という不幸を自ら招いてしまう。
 作品を読んで考えたこと、それは「マリンモ」の意味だった。だがそれは間違いだった、主人公の如く、異土(id=精神の奥底にある本能の源泉)のなかで「マリンモをさがす」のだ。
(よって上の文章も以下の文章もばかもいいところだが、面白いのであえて書く。ヒヤシンスの語源となったらしいギリシャ神話に登場するヒュアキントスは、アポロンに溺愛された美少年だが、アポロンとの仲を妬まれたために少年はある競技の最中に事故を装われて殺されてしまう。嘆くアポロンに看取られて死ぬ少年から流れ出た血が地面に浸ってそこから青く美しい花が咲いた、花びらにはギリシャ語で「かなしい」を意味する「Ai」という文字が浮かび上がったという……紀元ギルシアとVERSIONがなんとなく重なった)

 作品情報はこちら→坂口尚短編集、出版元はこちら→チクマ秀版社
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