「黄色い本」

講談社 アフタヌーンKCデラックス

高野文子


 活字が絵になるだなんて考えてもみなかった。擬音が絵の一部とは聞き及んでいるし、実際読む方も音を読む感覚よりも見る感覚が勝るから、それ自体も作家の持ち味になりえるというのはよくわかるけれど、活字本の中の文章が、コマの中を埋めるどころかそのコマ頁すべてとくれば手抜きだといいたくなるものの、ちゃーんと漫画になっているのが一目にしてわかってしまう・わかるというより最初からそういうものだという意識を刷り込まれてしまう。冒頭の頁ではわずかに主人公・実地子の親指のみが描かれ、他は文章のみ。いや、文章自体が描かれている。当然作為もある。コマの中の文章が読み取れるような構図がとられているので、本の内容を知らずとも、彼女が読んでいる文が私たちにも伝わり、意味が汲み取れる。漫画だよ、ほんとに。目に見えるものをそのまま描くだけだったら写真を使えばいい。問題はすんなり読み砕けるかってことだろう。中心とは無関係な描写・背景などに目を向かせるより先にまず読者を誘導する描写があってしかるべき。本来あるべき本の形がゆがめられ、主人公の今読んでいる文章がひとつのコマを形作っているからこそ、そのコマの内容は単なる活字の写しから空想にすっ飛んでいるのである。妄想と言い換えてもいいが、これって高野文子お得意の技法じゃありませんか。主人公の視界・思考を通して奔放に展開される躍動する空想感覚・自分で書いてて意味よくわからんけど。
 で、「黄色い本」。高校三年生の実地子が「チボー家の人々」という大長編小説を日常の中で淡々と・けれども情熱的に読み進めるという話。そりゃもう完全にひいきしているから、高野文子作品ってだけで完璧なんだけど、冒頭から始まる主人公の空想が今作品では誰もが共通体験として持っているだろう読書体験に根ざしている点が大いに興味を引き立てられるのである。当初「チボー家」を本気で読む気でいた私だが、読み進めていくうちに必要がまったくないことに気付き、だってこれは高野文子作品なんだもの。そんな野暮……否、野暮ではない・「チボー家」が今日もなお読み継がれていることからしていつか読むべき本だろうが、この作品に関してはむしろ主人公の空想が発展していく様子を観察することが重要だと思う。「チボー家」は劇中で引用されている文章だけでことたりようし・前述通りすでに文章自体が彼女の思考によってゆがめられ漫画表現に還元されているからして、彼女の生活に染み込んでくる本の世界が読者をして「チボー家」を読んでいる錯覚に落としいれてしまうのだ。
 こうして段々と「チボー家」の人々は拡大し膨らんではじけて彼女の隣にまでやって来、大切な友人にまで至るという弾けっぷりである。活字だけだった登場人物に深夜のフランス映画に出てきた役者を重ねて彼らと会話を交わす。実写化された小説の登場人物にその出演者を配して映画を想像するように読むようなものだろう。で、さらに小説の舞台が現実にまで侵入すると、彼女自身が登場人物の一員として動き始めるのだから際限がない。「メーゾン・ラフィット」が歩いていける場所にまで距離が接近してしまうのだ。そうなると彼女もちゃんちゃんこばかり着てられない、もちろん母親の指摘に憤慨したためでもあるが、チボー氏と会うために正装する彼女の心境・心構えは好きな長編小説が一本でもある人ならばわかるはずだ。ラーラちゃんという人形だけでは飽き足らずに身だしなみを整えてしまう彼女は、現在自分が置かれた状況・迫る進路の選択が読書中にも徐々に影響し始め、いよいよ現実と架空の世界がかきまぜられる。そして何より重要なのは、彼女と周囲の人物たちとの関わりである。
 チボー氏に感化された彼女はインターナショナルの思想を持つに至った。民族主義といえば大げさだけど、その最小単位である家族・彼女が言うところの「自分の好きな人」を大切にするあまりそれ以外の人に冷たくする考えだと捉えながら、彼女はルーちゅんの「電気つけると暗いねえ」(最高だよ、この場面)と続く「遊んでくれねんだもーん」のやり取りに「祖国ガイネンのハイキ」を実感する。それは必至だろうか? と問いながら彼女は懸命に努力し行動で示すが、それでも疑念は消えない。本当にこれで良いのか、という茫漠とした不安が眼前に横たわる。就職や進学を前にして翻意する級友たちを尻目に彼女は悶々と苦悩する、以前は体を気遣って車中の読書をいさめた友人さえ今では卒業後のことを心配していた……いや、自分だって、簡単に動揺してしまったではないか、シャベルを取りに行った小学校で出くわした帰省中らしい大学生の革命もどきに浅はかにも心惹かれたではないか……
 正直、読み終えてちょっと目が潤んだ。74頁の回想場面が印象深い。絵本を読んで聞かせる父が印刷間違いに気付いて字を訂正する。それだけである、それだけでもって、彼女にとって読書は言葉を覚える手段と化していた。「チボー家」以前にも彼女は多くの本を読んだだろう、冒頭の友人の言「実ッつぁんて、ときどき難しい言葉使うよね」がそれだ。しかし、「チボー家」は彼女の読書観を覆してしまった。彼女の日常に侵入したのは本の中の難しい言葉ではなく、作品世界そのものだったのである、すでに読み終えた頁は単なる過去の言葉ではなくして懐かしい場所になったのだ。「本はためになるぞ いっぺえ読め」という父の真意を汲み取った彼女は、図書館に本を返却する。メーゾン・ラフットは彼女にとって「チボー家」のそれではなく、読書体験そのものへと拡大し、これからが彼女の本当の読書のはじまりなのである。


戻る