「きくかてん」

青林堂「鱗粉薬」より

津野裕子



 短編集「鱗粉薬」収載のわずか8頁の掌編。主人公の若い女性は、目覚めたら知らない土地を走る電車内に居て、ときに「きくかてん」という駅で降りて通りを歩くと自分の家を見つけたので入るや好青年が待っており、ボートで湖を一緒に渡りその先で催されている菊花展に立ち寄るがみんな自分ばかり見ていて気味悪く、好青年の姿までいつの間にやら消え、替わりに見知らぬ女性が手をつないで傍らに現れ、とりあえず共に湖に行くもボートなく、湖の対岸の火事を眺めつつ主人公は女性の手を握る、というお話で筋らしい筋はない。深読みしようと思えばいくらでも出来てしまう内容だが、津野裕子の諸作品を読んでいれば、そんな思索がとてもばかばかしいほどに無意味に思える。言うなれば詩のような、幻想のような、夢のような、そんな作品だから、物語の整合性以前に作者自身の感性に触れて和むというかのんびりするというか、そんな感覚を味わえる。特定のなにかを気取るわけではなく、自然にゆらゆらと半ば無責任に、描きたいものだけの為に他の部分をなんとなく紡いだような内容だ。
 物語の構成に惹かれることもあれば伏線の張り方にうなってしまってそれだけで仰天してしまうこともあり、それは確実にあるだろう物語の行方・結論を性急に求めようとする読み手の期待を十分に意識した作品なわけで、実に地に足のついた重厚感がある。といってそんな物ばかりを読んでいると思考回路が一般化されて後、作品から離れて語るにしょうもない一般論をそれと気付かず滔々と述べ立てることになりかねないことを自覚して、つまり偏食を慎んであえて地に足をつけていながらふわふわした作品を手にとって読むと、また違った面白さに出会えるのだから嬉しい限り(私ひとりでは彼女の作品を知りようがなかった。津野裕子を紹介している数少ないサイトに感謝している)。で、ゆらゆらとかふわふわとか、そんな抽象的な表現で一体何が見えるのかというと、作者の均一で立体感に欠ける描線やモノローグを多用したわたくしの強調、さらに冒頭のあらすじで察せられよう一種幻想的な・夢物語、つまりあいまいさなのだ。
 中村良夫「風景学入門」では風景の味のひとつとして、際とか涯とか、境界線がはっきりしていない中和された景色・たとえば砂浜とか川岸とかがあり、コンクリートで区画されたそれらは味気ないという論旨を読んで、なるほど、風景の肝はあいまいな境界にあるわけだ、と膝を打って、その勢いのままに坂口尚の短編「野の花」を風景を中心にして読み解く試みをした。この作品も風景を視点の中心に据えると真正面から描かれたあいまいさに圧倒されてしまう。単刀直入に言うと、作品自体が一個の風景みたいなのである。
 あとがきの自己解説によると、「きくかてん」は実際に見た菊花展をきっかけにして描かれたらしいことがうかがえる。それなのに出来あがった作品が夢の話なのだ、テーマをあえて探るなら、不安の拠り所を求める女性の表象、と言えなくもない(というか、ほんとにそんな解剖を拒絶する内容なのでばからしい言だ)。しかし物語冒頭から読者を無視した詩風の展開は結局これが夢なのか現実なのかわからないままあっさり終わる、終わりもはじまりもないようにも思える、多分夢日記のような感じなんだろうが、さりとて現実の話として読んでもそれはそれでありえるような確かさがあって、はっきりしないのだ。本来ならば空中分解して訳のわからない作品・意味不明の自己満足な作品になりかねない展開でありながら固く支えられた魅力が風景というわけ。
 細かく読めば劇中のそちこちに風景が描かれている。舞台は夕暮れ近く(いや、それさえ判然としないが街中は薄暗い)で街そのものの輪郭があやふやだし、湖上はあまりに静寂・時が止まっているようないないような感覚、思考が溶けてしまう。
 そんな茫洋とした作品世界を支える風景の風景たる所以とはなんだろうか。これには何を風景とするかという定義が必要になろうが、これは意外と簡単である、すなわち「地に足をつけて肉眼で見た景色」である。写真やテレビを通してみた風景は論外、乗り物の中から観た窓越しの景色も違う。立ち止まって見た景色こそが風景になり得るわけだ。漫画の中の風景は、現実の風景の視点とはちょっと離れる、この場合は実際に読んで物語の上から体感できた風景(単に「いい景色だなー」とか「のほほんとした絵だなー」というのもあり)と言いたい(作品自体が・作者の描く態度そのものが地に足をつけていることも前提にしよう)。あくまで表現上ということで、他に映画や音楽だっていい、体感させてくれればいいのだ。伝聞ではなく、読み手も地に足をつけて観賞する、じっくりと。そして物語から切り離してなお印象深い場面や旋律があれば文句ない。「きくかてん」を風景そのものといった訳は、どの場面も切り離すことが出来ないくらいで、どのコマもどのセリフも過不足なく8頁の枠さえもやもやと霧散するような読後感、夢の風景を垣間見てしまったようなちょっとした興奮というか、現実では見ることの出来ない風景に触れた気持ちなのだ。風景を脳が直に感じた気分と言えるか。


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