「聲の形」

彼女の欲望

講談社 週刊少年マガジン2013年12号(2月20日発売)

大今良時



 今年の2月20日発売の週刊少年マガジン12号に掲載された大今良時の読み切り「聲の形」が話題になって三月が過ぎていた。遅きに失した感もあるが、備忘録替わりに個人的な感想を残しておきたい(なお、「聲の形」は同誌で夏からの連載が決定している)。
 さて、簡単なあらすじ。小学校高学年の主人公・石田のクラスに聾唖の少女・西宮が転校してくる。彼女はノートを通してクラスメイトとの交流を希望していたが、石田にとって彼女とのそれは煩雑で面倒で手間がかかるものだった。石田ははっきりと彼女のことが嫌いであると意思表示し、いじめへと発展する。やがてクラス全体で彼女を異物として扱い始めると、いじめは公然のものとなった。だが、学校側にいじめが露見すると、クラスメイトは石田がその首謀者であると主張し、生贄として石田は捧げられたのだった。いじめの標的として石田は日々を過ごすことになる……
 本作の主題を引っ張り出すとしたら、あらすじからもわかるように「いじめ」「障害者(あるいは聾唖者)」といった言葉が出てくるだろう。障害者に対するいじめを描いたという点で衝撃作と言われてもいるわけだが、私にとってこの作品の主題は、聾唖の西宮が時折見せるどろどろとした欲望だった。そして、石田と同じように私は、彼女を不気味だと感じたのである。
 障害者が登場する物語において、彼らには「心がきれい」「穢れを知らない」などのようなありがちな役割が与えられる傾向が認められるし、実際にそのような設定にはうんざりさせられるけれども、本作の西宮には、そのような設定がほとんど見られないのである(このひねり具合が、私がこの作品に強く惹かれた所以でもあるのだが、一方で彼女の言動を「ありがちな」障害者の設定と評する声も見聞きしているが、彼女が求め続けていたもの・その傲慢さと表裏の純粋な欲望を目の当たりにすれば、さて、そのような見え方自体が、障害者に対する何かしらの偏見のような気がしている。彼らにだって人並みの性欲はあるし、自分でも理不尽だと思えるような狂気めいた妄想に駆られることもあるだろう。ともかく私は西宮の言動からどろどろとしたほのぐらい欲望の渦を感じ取った)。そして、聾唖者と接する周囲の人々の態度が、腫れ物に触るような慎重さでもって、実に正直な反応を示している点も素晴らしいと感じた。こうした普通の感覚は、本来であれは、差別心として何らかの形で物語的に罰せられるものだが、本作では、実に楽しそうに西宮を排斥し、遊び道具として弄び、最初の頃は試みたノートによる筆談も行われなくなり、「毎日が楽しかった」というホントの言葉が石田のモノローグによって表出されるのだ。これはたまらなく私をぞくぞくとさせた。何故なら、いじめはホントに楽しいからだ。
 これまでもいじめを扱った作品について感情的な文章をいくつか書いてきている私であるが、その一方でいじめは楽しいものであるという本質も忘れないようにしていた。いじめを無くすだなんて無理に決まっているのだ、子どもだろうが大人だろうが、いくつになっても人をいじめるという行為は楽しくて仕方がないのは真実なのだから。
 もちろん、いじめられた側がそれによってなんらかの対人障害を抱えるに至り、時には自殺という手段を選ぶことも承知している。いじめが悲劇であることもわかっている。誰かをいじめてやろうなどという感情を持っているわけでもない。いじめというものは、気がつけばいじめていた、という状態であり、最初から、この人をいじめようと意図された現象ではないと思っている。
 本作では、西宮がいじめられていく様子が簡潔にもっともらしく描かれていた。はじめのうちは筆談に快く応じていた女子生徒、大事に扱わなければならないと気を遣う周りの生徒たちに担任の教師も含め、彼女と接するときに感じる違和が少しずつ蓄積され、やがてストレスとなって飽和し、彼女に向かって一気に吐き出される形となり、合唱コンクールで頂点に達した。
 何故かと考えるまでもない。彼女を他の生徒と同じ存在として扱ってきた結果に他ならない。彼女はもとから特別な存在だった。聾唖でない生徒と同じように扱えるわけがないのをわかっていたはずなのに! 他の生徒と同じように接しよう、差別しないように気を付けよう……こういう心持ちで彼女と接すること自体が、彼女を恐縮させ遠慮し、萎縮させてしまう行為であることも理解できないのだから仕方がない。彼女の特殊性は、それを個性としてしまおうとする周囲の言動からもたらされた結果に他ならないのだ。
 ところが、石田は違った。彼は、他の人とは違う角度から、彼女を最初から特別な存在として・皆とは違う存在として接し続けた。だって聾唖者なんて珍しいし筆談なんてかったるいし、何考えてるかわからないから不気味だしみんなの足を引っ張るし、こんな存在、一緒にいるだけで疲れるのは当たり前だ。だから彼は生贄になったのだ。彼もまた、皆と違う接し方をただ一人彼女に対して続けてるという、クラスの中で特別な存在になっていたからだった。校長先生は全校集会で言っていたではないか、「クラスメイトという名の芯が結束すれば 折れない力強い芯となるのです」 まさにこの言葉通り、彼らは西宮に対するいじめを隠蔽し、石田にその対象を摩り替えることで、結束したのである。
 西宮は、いじめられる対象であることを自覚していた。「ごめんなさい」と独り言のようにノートに書き連ねた。石田を中心にしたいじめられる日々にあって、彼女のそんな言葉は気味が悪いものだっただろう、理解できないものだろう。だが、彼女が欲していたものの正体をやがて読者は・私は知ることとなった。執拗ないじめに遭いながらも、彼女は石田と対峙したある日、彼の手を握るのである。
 賛否あるかもしれないが、私は、彼女は身体的ないじめそのものを少なからず喜んでいたように思えた。彼女がどのような経緯で転校してきたのかはわからない。専門の学校に通う手だってあったろうが、そうしなかったのは両親の考えでもあろうし、何よりも彼女の望みだったのかもしれない。だが、周囲の反応はこのクラスメイト同様の態度だったのだろう。言葉を選んで接してくる彼ら、あるいは関わらないようにする彼ら、先生ですら差別を恐れるあまりに触れることをためらう聾唖者という現実を、誰も受け入れられない。ところが石田は、彼女を耳が聞こえない存在としてはっきり認識し、その点を突いていじめという手段ではあるものの、彼女自身の障害を彼女に自覚させながら身体的な接触を毎日繰り返してきたのである。石田の言動は単なる差別意識の足りない子どもの言動に見えるかもしれない。けれども、彼女にとって、耳が聞こえないことを前提にした彼の接触は、自分と同じ目線に降りて筆談に応じる学級委員の尊大さや、自分の音痴に合わせて皆を歌わせようとする音楽の先生の勘違いとも違う、ホントの自分を受け入れてくれた・自分と同じ目線で触れ合える相手と思わせるに必要な痛みだったのではないだろうか。さもなければ、石田と殴りあうほどの喧嘩をしているときの、彼女の笑っているように見える表情の意味が説明できないではないか!
 捨てられたノートを一度拾いながらも、思い直して自ら捨ててしまったのは何故か? 「ブス」などといった言葉が乱雑に書かれているのも理由の一つかもしれないし、意味がないことを思い知ったとも考えられる。あるいは……筆談そのものが彼女の傲慢さであったからに他ならないのではないか。だから彼女は石田の手を握り、手話で意志を伝えようとした。身体的表現こそが、意思を伝え合うホントの心の通じ合いなのだ。筆談では感情が伝わらない、けれども表情や仕草ならば、きっと感情は伝わる。石田がクラスメイトに殴られて倒れていた場面で、西宮はハンカチを差し伸べて鼻血を拭おうとした、唐突な握手に続く接触である。しかし「言いたいことあんなら言えよっ!!」と石田は西宮を蹴り飛ばした。彼女は、言いたいことを石田の頬を叩くという行為で応じた。喧嘩に発展した二人の対話は、結果的に西宮の転校で幕をおろしたかに思えた。
 さてしかし、西宮が去った後で石田はある事実を知った。自分の机の上に落書きされたたくさんの言葉。西宮は、喧嘩のあともなお転校するまでの間、石田の机を拭き続けていたのである。西宮のノートに記されたたくさんの言葉と、石田の机の上に書かれたたくさんの言葉が重なった。
 彼女の友達が欲しいという欲望は、ノートからは生まれなかった。筆談では味わうことができない体温を二人は知るのである。手話による身振りを、あの時こう言った! と西宮に告げる石田の声は、西宮が石田の手をあの時と同じように握ることで、ようやく握手という形になった。喧嘩した後に互いを認め合ってガッチリと握手して仲直りする昔のマンガみたいな展開に、ちょっと感動したのだ。
(2013.5.24)

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