「恋は雨上がりのように」10巻

すべてまぼろし

小学館 ビッグコミックス

眉月じゅん


 最終巻となった10巻。個人的に素晴らしいラストであり、恐ろしいラストでもあった。
 45歳のファミレス雇われ店長の近藤に17歳の女子高生・橘あきらが恋をし、積極的にアプローチしていく。序盤のこの展開だけを見れば、年の差の恋愛を描いた物語が始まったと思えたかもしれない。 けれども、陸上部のエースが怪我により挫折したという発端を踏まえれば、私は当初から、二人の物語は、ケガからの復帰と近藤自身の再生を描くのだろうとぼんやりと考えていた。近藤が小説家としての自立を夢見ていた経緯が描かれると、近藤にとっての再生は、小説を書くことなのだろうと考え、おそらく作家として独り立ちした近藤と、陸上に復帰した二人がラストを飾るのではないかと素朴に推測した。1〜2巻の感想では、父親の不在が鍵ではないかと書いたが全く関係なく、二人にとって重要なのは、近藤にとっての過去であり、あきらにとっての未来であり、家族や友達の分け入る余地のないほどに、関係性は濃密であったことが10巻の長い一日の描写によって明らかにされただろう。 あきらにとっての近藤は、父親代わりでもなんでもなく、どこまでも異性としての魅力的な存在であり、近藤にとってのあきらもまた、いつの間にか魅力的に存在感を増し、彼女のことを考えてしまう自分の身の置き所に懊悩するのである。
 さて、小説を書く喜びを取り戻した近藤と、陸上部に復帰し活躍するあきら。半分当たったような半分外れたような、しかし、そんな予想なんて関係なく、私は物語の結末を前述どおり素晴らしくも恐ろしいと感じた。  その予兆は、10巻の冒頭に唐突に現れた。1月の近藤の誕生日プレゼントにマフラーを編んだあきらは、正月早々、大雪の日に彼の家を訪れた。すれ違うかに見えた二人は、近藤があきらの訪問に気付いて呼び戻す。あきらが近藤の家に上がり込んだ直後、見開きで、その瞬間が訪れる。
「なんだか これきり 橘さんと 会えなくなるような 気がする。」
10巻20-21頁
 これをどう捉えるかによって、ラストの余韻は正反対のものになってしまうかもしれない。その後の近藤の逡巡と、あきらを自分から引き離そうとする言動を鑑みれば、素直に近藤の諦念や、年の差を考慮した結論であったり、あきらには未来を向いて生きてほしいなどといった迷いともけじめともと読み取れるかもしれない。おそらく、それで問題ないだろう。もう少しひねった観方をすれば、たとえば、逆にあきらが近藤との関係を断とうと決断した気配を近藤が察した、あの暗い背景やあきらというキャラクター性を支える一番の特徴である精緻に描写された目を、あえて顔を伏せさせて描かない、一瞬の交錯に、不安を覚えても不思議ではない。
 いずれにせよ、このモノローグには明らかに悲観的な色合いが、言葉の字面通りに描写されている。私は、その後の雪女の話を思い出す近藤の姿と併せて、不意に、近藤がここにはいないような錯覚を覚えたのである。本当の近藤は、すでに物語外にあって、まるで近藤という人物の言動を観察している、別の近藤がいる、と感じたのである。  キャラクターが見ているものを丁寧に描写し、その動きをゆっくりと、コマを複数に割って演出し、彼らが何を思っているのか、何を考えているのかを繊細に描いていた物語が、言葉による描写を突如として増やしたのだから、それが近藤の小説家としての資質の表出であってしかるべきではないか。
 つまり、近藤はすでに、職業作家としてではないものの小説家として、あきらよりも先に雨宿りを終えてようとしとしていたのだ。後に彼は「文学を捨てる勇気が」なかったと語るけれども、近藤が自分を客観視し、自分に好意を寄せる女子高生と部屋で二人っきり、というシチュエーションを目の当たりにしても、自分は自分自身が描く小説の一キャラクターでしかない。その妄想は、あきらと自分が高校の同級生だったらという挿話に昇華されるわけだが、彼女を招き入れる前から、彼は執筆欲が再燃し夜更かしするほど夢中になっていた楽しみを取り戻し、現実さえも小説という虚構の世界に取り込んでしまう。作家としての性癖が、何者を前にしても、この場面をどのようにして表現するか・比喩するか、という職業病めいた心理状態に陥っていたとも言えよう。
 本当の近藤は別の場所にいる。その冷たいほどの客観性は、ほとんど作者と重なるだろう。芥川龍之介「羅生門」を引き合いに、この物語の主題を仄めかしてきた作者が、知らず近藤になりきって、物語を動かし始めた。作家がキャラクターを自分の子供や家族に例えるインタビュー記事は数多ある。本作の場合は、近藤として物語の結末をどうすべきかを決するための作為が、この見開き二頁から伝わってきた。(もっとも、作者は自身のブログで作品解説をしているようだが、私はそれらを読まずにこれを書いているし、そもそも読んだところで作者の言葉と答え合わせをする気はない。あくまでも、私が感じた「恋は雨上がりのように」の世界を、素朴に綴るだけである)。
 このモノローグを文学的だというわけではない。句読点は最後だけで、読点の代わりなのか半角スペースで間を設ける。そもそも文章として散文的でありながら、詩のような印象さえある、たったこれだけの言葉を四行にわたって書くのだ。だが、詩というにはあまりに散文である。つまり、これは近藤が小説のネタとして使える文章をメモする代わりに、脳裡にネタを書き込んだのだ(もちろん、マンガではフキダシの中に限らず、言葉に読点はほとんど用いられず、代わりに半角スペースを用いるのが一般的である)。このような場面では、どう描写して物語を転がせるのか。高校生という過去に戻った自分があきらと対峙したらどうなっていたのか、という妄想によってその一部が虚構化された。その挿話は、すぐにあきら自身が近藤が自分と同じ同級生だったらという妄想の挿話と対になっているために、二人が似たようなことを考えていたという展開により、想い合っていることを仄めかして焦点をずらし、作者の作為は隠されてしまうが、全てが隠されたわけではなかった。
 二つの挿話の共通点はいくつかあるだろう。あきらに「店長」としか呼ばれなかった近藤が、「近藤」と呼ばれる冒頭のそれだけで、彼の心理が読み解けようし、そうとしか呼ばないあきらが、妄想では「近藤」と呼ぶのだから、「店長」と「バイト」という関係性を別の形で乗り越えたい欲求が描かれていると思われるだろうし、実際にその意図はあろう。けれども、相違点を挙げれば、決定的な違いがすぐに二つ浮かび上がる。近藤の妄想の終わり際、「彼女は はやく雨がやむことを願っていた。けれど僕はそうは思わなかった。」という文章が添えられる点が一つ目である。明らかに自分を客観視した、モノローグとは別の小説的な文章である。読点はなく、やはり半角スペースで間をとっていることから、まだ文章という形式として成り立ってはいないが、その萌芽は、続く「だって、雨がやんでしまったら、」というモノローグによって読点が明示され、文章化されようとしていた。
 もちろん、間の取り方を読点か半角スペースかで小説的かマンガのセリフ的かを判断するのは早計だろう。ここでは、近藤が自分の妄想を小説として書こうとしている、書かなくとも、作家の性癖によって小説的な描写を試みていることが重要なのである。
 二つ目は、この先の展開を決定的にした相違点である。近藤は過去を思い出しながら妄想し、あきらは現在を妄想した、時間軸のずれである。
 このずれは、ラストの傘に極めて象徴されている。これまでも近藤とあきらの言葉のやり取りから勘違いが生まれる挿話は幾度も描かれていた。そもそもあきらの「好き」という告白を近藤が異性としての好意と受け取るまでに、長い時間がかかっているのも、思考のずれである。その、一番の原因が、時間なのである。
 父親の不在は、結局、物語は深く踏み込まなかった。近藤が離婚した理由も明示されていない。物語にとって、そもそも過去を探ることはほとんど重要ではない。今の状態が、重要なのである。今現在、キャラクターたちが感じていること、考えていること。あきらが近藤に子供がいることに一時ショックを受けるも、離婚していることをすぐに知って安堵する。この挿話一つだけで、少なくとも彼女は今を重要視していることが理解できるだろう。過去に何があったのかは、重要ではない。若さと言ってしまえばそれまでだが、一方の近藤は、彼女と比較したとき、常に意識するのは高校時代の自分でしかない。過ぎ去ってしまった、もう変えることのできない時間を、近藤はただただ何度も書きなぞり、何度も同じことを思い出す。あの時こうしていればと思ったところで、何も変わるわけではない。それが老いるということと言ってしまえばそれまでだが、二人の時間のずれは、覆せないほどに決定的な差なのである。あきらの引いたおみくじの言葉が、はっきりと彼女のキャラクターとしての立場を解説しているだろう。
 だからこそ、近藤はあきらとの交流を虚構化せずにいられない。小説だけが、時間のずれを取っ払ってくれるのだ。小説の中では、二人が同じ時間を生きる物語を描くことができる。近藤のモノローグに読点が増え、言葉も小説的な文章や比喩が増えていく。
「今はその純度の高さに、息すらうまくできなくなる。」
「今度、渡せればいいプレゼント。今度、渡したいプレゼント。」
「きっとこのまま、帰れなくなる。」
「雪は雨に変わった。発した言葉は、もう何処へもいかない。」
 彼女を虚構化することで、近藤は彼女との接し方を冷たくあしらい始める。車の中、近藤は、自分が築き上げたキャラクターを抱えたまま、現実のあきらというキャラクターを軽くいなすのである。
「橘さんのそういうところ、僕は好きだよ。」
 僕とは、虚構化された自分である。常に俺、オレと言う近藤が僕と言うときの「僕」は、高校生時代の自分であり、今の自分を私小説に置いた「僕」なのである。雪の静寂に、世界には自分たちだけしかいないような感覚を呟いた時も、「僕らだけ」と語っていたのを思い起こす。
 さてしかし、物語を端的に長い雨宿りと二人を形容することは容易いが、それでは変化したのは周囲であって自分たちは無為に時間を過ごしただけのような誤解を与えかねないのではないか。あきらの成長は過去の記録を更新する、という描写によって描かれたラストが明快であるが、近藤は久保さんとの対話を物語の冒頭よろしく繰り返し、あきらのいない日常に戻ったような錯覚を与えよう。けれども、ツバメの巣の元を見詰めた彼は、そこに自分を暗喩し、作家になれず空を見上げてばかりいる自分を振り払い、「けれども」と続けた。あきらからの手紙を読まない・つまり過去はもう気にせず、あきら同様に、近藤もまた、過去を糧に未来を見据えた物語をこれから書くのだという決意めいた演出が、空を見上げた先の景色に想いを託すことで、描かれるのである。
 それはそれで素晴らしい。一方、恐ろしいラストと感じたのが、近藤がこれまで積み重ねてきた虚構化である。六月のある日に日傘をさすあきら、まるで自分の誕生日プレゼントとして、あれを受け取っていたかのような、それは考えすぎかもしれないし偶然かもしれないが、ひょっとしたらあのプレゼントをあきらは誕生日プレゼントとして、いままで大事に開けずにとっていたのではないか。近藤は「雨の多い季節に生まれたんだね」と語っていながら、日傘をプレゼントするのは、やはりどこかずれている。いつしか読者は、近藤が夢見たあきらというバイトの子の架空のやり取りの中に迷い込み、ただその夢を見せ続けられていたのではないか。いや、考えすぎなのはわかっている。だがもし夢であれば、近藤はいつまでもあきらを忘れずにいることができるし、彼女との物語を綴ることができる。儚い夢だろうか? もし夢であったとしても、私は、あきらが近藤への想いを忘れずにその後の人生を歩んでいく未来を信じたいのである。
 芥川龍之介は、邯鄲の夢に材を取った「黄粱夢」という掌編で、こう語る。
「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」

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