「コインロッカーのネジ」

 新書館ウイングスコミックスより全五巻。他に文庫版もあり。

こなみ詔子



 正直言いますと、私にはこの漫画がよくわかりません。訴えたいことにうそ臭さを嗅いでしまいますけど、それは別に構いません。白の多い空間にちょっとだけ描かれた人物、詩でも意識しているような画面構成、これもこの作品・というよりこの作家の持ち味でしょうし、それがなければそこはかとなく漂っている哀しさを読者に伝えられないと思います。しかし、何かが足りないのは、詩をほとんど読まないからでしょうか、あるいは作品自体がつまらないのでしょうか。・・・いや、読んでみると、恥かしくって正面切って言えないようなことを主人公たるネジに結構言わせており、ネジというキャラクターの純粋性・善も悪も、正も邪も兼ね備えた物事を測ろうとしない潔癖さをうまく利用しています。生きることも死ぬことも、自殺も他殺も受け入れてしまうネジの寛大さは本人にそれの自覚がないだけに、下手なヒューマンドラマより百倍も現実感はあるんです。無垢な子供の何気ない言動に、なにか重大な意味を持たせようとすると、どうしても作者の作為・つまり偽善めいた善意を物語から感じやすいのですが、この作品は第一話でいきなり真の無邪気というものを見せてくれています。
 ネジを居候させることになるくらーい過去を持つ八坂弘(やさか・ひろむ)の手首に残る傷、これは当然自殺を試みた傷ですよね、ネジはこれを見て「痛かった?」と訊くだけです。特に自殺を咎めるようなことは言わない、純な好奇心から発せられた言葉、同情ではない思いやりに弘は感動してしまって忽然と現れた身元不明のネジと一緒に住むに至るわけです。そして、二話目では母親を殺す子供とネジのぎこちない交流が描かれ、ちょっと慄然とするような展開ですが、この二つの話で、作品の方向性・これはそこらの子供が主人公の物語ではないんだぞ、というような決意表明が込められているのかもしれません。
 それにしても、私には安易な印象が拭えません。登場人物の辛さはひとえに身近な人の死です、辛いことはそれだけではないと思いますが、ただ、作者は「死」に対して冷めた考えを持っているらしく、新書館版2巻にある詩がそれを象徴しています。「いいか/よく聞け。/おまえ一人が この群集の中で/少し動いたところで/何も変わらない。/となりのヤツを殺してみろ。/ほら それでも 一人減ったようには/見えないじゃないか。/大丈夫さ。」
 次のページでは逆に「何かが欠ければ/何かが犠牲になるのよ」という詩を載せてバランスをとっていますが、だれもが抱く虚無感・自分がいなくなったって世の中何も変わらずいつも通りに動いていくという考え、それでも生きている自分に対する自家撞着、そして死にたくないという正直な気持ちの一方にある自殺への憧憬、まるでネジのような言動が同居している自分の心に私は気付かされました。それは葛藤とはまた違った気持ちで、生きたいという思いと死にたいという思いが摩擦なく心の中に居座っていて、ふたつがあってようやく精神の安定を得られているような心持ちなんです。どちらか欠けるとどうなるか、まったく想像を受け付けない世界と接している不安に暗い顔をしているのが弘で、彼の不安を払拭しているのがネジですね。
 たとえば4巻の「痛い。」の巻。ここでも作者の冷めた視線があります。この挿話は病院で寝たきりとなった老人を絞殺する女性とその現場を目撃したネジの対話です。ここでは死んだ老人への哀れみなんてほとんどありません。老人は寝たきりとはいいながら締めつけられる首の痛み・遠のく意識下の恐怖などいろいろ苦しんだのでしょうが、ここで語られる痛みとは首を絞めた女性の手であり、後で転んで膝を擦りむくネジの痛みであって、死んだ人の痛みはどうでもいい感じです。実際、人を殴ったとしても人の殴られた痛みより自分の殴った腕の痛みのほうが断然心配ですし、見知らぬ土地で見知らぬ人がいくら死のうが、飼っていたペットの死のほうが、いいや、きっとネジのようにちょっと擦りむいた膝小僧のにじんだ血の方がはるかに重大な関心事だと思います。決して同情なんてしない冷徹な姿勢です。
 人生に辛い出来事はつきものです。それをみんな乗り越えて生きている・・・とは思えません。といって逃げているわけでもない。多くの人は、それらをみんな後回しにしているのではないでしょうか。ネジと暮らす弘は自殺を試みました、ときに自殺は現実からの逃亡なんて言う人や何があっても生きるのが人としての運命だなんて大仰に言う人もいますが、ネジはそういう人になんていうでしょうか。
「きみが弘と同じ立場だったら、きみは自殺しないの?」
 弘は後回しにせず、今解決しようと考えた。それが自殺だったんですね、ネジはそれを無意識に理解できたから、なんで死のうとしたのかなんて野暮なことは聞かない。人には好奇心があります、時折それは非情な手段で人の心を踏みつけます。自殺はあくまでも生きるひとつの手段です、人の生き方は様々だとわかっているはずなのに、人はとかく自分の価値観を押し付けるものです。ネジは弘と出会う以前に町の雑踏の中で生きることを決めました。それは選んだんじゃない、選択肢があると人は安全な道を選ぶことが多く、消去法という無難な選び方を試みてしまいます。しかし、生き方は常に無限の可能性をもって眼前に広がっていると思います。物語はネジが弘の両親の養子になることを決意した場面、「ただいま」で終わっていますが、仮に弘と別れて町の中に姿を消してしまう終わり方でも、死んでしまう終わり方でも、なんでもありえるのがネジという少女なのです。よくわからない漫画といいながら、この作品から受けた思いはたくさんあったようです。

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