「金剛寺さんは面倒臭い」1巻

時よ止まれ、お前は美しい

小学館 ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル

とよ田みのる



 大げさな表現というものは、得てして出オチになりやすく、繰り返せば繰り返すほど陳腐になってしまう。ギャグマンガが連載の果てにシュールになりファンにしか理解できなくなり、やがて打ち切られていくという現象は多くのマンガファンが目撃しているに違いない。一方でキャラクターを増やし、舞台を増やし、ネタがマンネリ化しないように最新の時事ネタを仕込みつつ、長きにわたって連載されている作品もあるだろう。
 けれども、こうしう過剰さをいくら繰り返しても飽きなく繰り返され多くの人々の支持を失わない物語もある。恋愛物である。少女漫画の例を挙げたらきりがない。少年漫画でもラブコメとしてシチュエーションに工夫を凝らして物語を展開させることもあるだろう。舞台となる学校のおなじみのネタ、文化祭、体育祭、修学旅行などなど、それらを織り交ぜながらも、枯れることなく恋愛を主題にした作品は描かれ続けている。
 では、大げさな表現と恋愛が融合したとき、どんな化学反応が現れるだろうか。昔で言えば、大映ドラマや昼ドラのようなドロドロでわかりやすい感情表現にやたらと深刻なBGMを被せるのも、たとえばバラエティ番組では、よくあるネタとしてコメディに転化されやすいだろう。マンガでもアニメでも、あるあるネタでそれらのパロディを楽しむことはできるだろう。
 とよ田みのる「金剛寺さんは面倒臭い」は、大げさで、恋愛で、やたらと大きなBGMや効果音が常に流れているような、そんな雰囲気に充溢した作品である。登校中、猫を拾う場面をきっかけに始まった金剛寺さんと樺山プリンの、二人の高校生の恋愛を、とよ田みのるは、自身の不器用なキャラクター描写や背景描写・漫画家としては融通の利かない短所となりえたかもしれない筆力を長所にすべく、そのまんま不器用なキャラクターを構築することで解消し、背景さえも二人の感情を演出する大げさな小道具として描出することで、まさに、不器用なキャラクターが不器用に想いを伝えながら、不器用に成長していく、という物語の骨格を、わずか第一話でやってのけたのである。
 心ではなく正しさで動く、という金剛寺さんと、心で動くプリンという対照的なキャラクターをくっつけることで生まれる化学反応を読者は楽しむことになる。それは、プリンから見た金剛寺さんがいつもキラキラとしている、そのキラキラの実に固くごつごつした柔らかさのない、およそ少女漫画のほんわかトキメキドキドキのスクリーントーン苦労して削り倒しましたみたいなのとは程遠い演出を逆手に、心を天使に射抜かれる、という恋に落ちる瞬間を、天使に銃弾で心臓を撃ちぬかれるという、身も蓋もないほど直接的な比喩で表現し、なおかつそこに、「この天使は“何か”の比喩である!!!」と直喩の説明という、説明に説明を重ね、さらに説明をしつこく重ね続けることで、過剰さでもって笑いを生もうとするのである。不器用な筆力で不器用な物語を構成することで、この作品は、とてつもなく、あらゆる現象が希望や愛に満ち満ちているかのような錯覚を引き起こすほどの、爆発力を秘めることになったのである。
 たとえぱ第一話のハイライトとなる歩道橋の告白場面を見てみよう。自らを面倒臭い人間だと説明し好意を寄せるプリンを諦めさせようとするも、プリンは、その面倒臭いところが好きなのだ、と告白する。
 歩道橋の上から描かれる幹線道路は、おそらく主人公たちが暮らす海辺に近い都市部、それも市内局番(大江戸病院の局番は「03」だ)から東京23区内であることは明白である。首都高につながっているだろう道路が広く描かれ、それほど眩く描かれない灯火や空の微妙な暗さは、日が落ちはしたものの、まだ明りを西の空に残しつつ、残光が雲を照らし陰影を生み、逢魔が時とも言える、心に隙間に魔ならぬ天使が付け入る瞬間を窺っていることが察せられよう。交通量もそれなりにあるようだ。そして中央の街路樹である。これは何だろうか。イチョウだろうか、プラタナスであろうか。東京都内の街路樹は、およそ94万本である(平成27年現在)。街路樹が飛躍的にその本数を増やしたのは、実は日が浅く2000年代に入ってからである。環境法などが整備されヒートアイランド現象を抑止しようとする動きもあるだろう。ここ10年ほどで約倍増した街路樹は、金剛寺さんの暮らす街にとっても、その幼き日々にはなかった道路の姿かもしれないのだ。そう思うと、この場面の中心に鎮座している巨木は、その昔からこの街を眺めていたとは考えにくい。どこかしら近未来的に整備された人工的そのものの海岸や大江戸という地名から、ひょっとしたら台場が舞台なのかもしれない。とすれば、この巨木も主人公とそうそう変わらない程度にしか、この街に居座っていないことになりはしないだろうか。もっとも、こんな推測は、この物語の分析には!!! 一切影響を及ぼさない!!! けれども!!! 地獄と通じ合った世界観という現実とは少し違う価値観が浸透してそれなりに経過していることを仄めかす描写を鑑みれば!!! この巨木の存在が物語にとって少なくとも、この告白の場面には、なくてはならない!!! ちょっと現実とは少し異なっているけど現実っぽい世界観を、街路樹の現実性からそのつながりを分析する思考は決して無駄ではないはずなのだ!!!(無駄です)
 この過剰な演出は、ただ手を繋ぐ、という行為に見開き6頁を使う迫力を可能にし、多くの読者を納得せしめるにとどまらず、周囲にまでその影響力を発揮する点において、もちろんそれはプリンが実は鬼であるという普通の人間ではないからこそ、なしえた奇跡なのかもしれないが、純粋な彼と、何事も理論的に思考を巡らす金剛寺さんが、付き合い始める第一歩として、その最初の一歩は傍から見れば小さな一歩かもしれないが、二人にとってはとてつもなく感動的で世界がひっくり返ったような幸福感と高揚感が全身の血流を駆け回る、第一歩なのだ!!! という説明に説明を上書きしても、し足りないほどの衝撃が、ただ手を繋ぐ、という恋愛物であればドキドキするような場面を、「試合」ならぬ「死合い」と比喩するほどの過剰さを、柔道の腕前も金剛寺さんはかなりのものだという説明を踏まえることで、違和感なく、この物語にとっては当然の演出として、「ガッシィィィィンッ」と手を握り合うのである。いやそれ、ただの握手やん、という突っ込みを一切受け付けないほどに!!!
 さてしかし、実はこの作品の根幹をなしている、この過剰な物語の交錯を可能にしているのは、金剛寺さんが自ら説明するブラッド・スコウ博士の時間の概念に他ならない。「ガッシィィンッ」の場面で多様な人々の多様な人生が交錯した幸福感は、それぞれにとっては人生の一部分でしかないし、お互いに関わり合うこともない。けれども、あの一瞬・あの時は、いつでもどこでも思い出すことができる。いや、思い出すという感傷的な心理は、いらぬ誤解を与えるだろう。金剛寺さんの記憶の保管庫のように、オデンも怪物大リーガーも、あの時のあの光景に、いつでも戻ることができる。そう、戻ることができる!!! 「過去・現在・未来は固定され全て 同じ時空に存在している」という金剛寺さんの解説は、時間は流れているという比喩は正しくなく、むしろ時間は止まっているのだ!!! それは「スポットライト理論」と呼ばれ、私たちは、常に過去にも現在にも未来にも「存在」しているのである。今この物語に二人が存在しているのは、今私たち読者がこの物語を、まさに今読んでいる、という事実が引き起こしたことなのだ。まるで時間という舞台上にいる二人にスポットライトを当てるように、読者は、いつでもどこでも過去でも現在でも未来でも、どこからでも二人にライトを当てて読むことができる。金剛寺さんの見た未来は、全て決まっていることなのだ、二人が結婚するのは、決まっていることなのだ。あとはいつ、作者がそこにスポットライトを当てるのか? もちろん物語が完結した後であれば、私たちはいつでも好きな時に二人に会いに行ける。時間は始めから流れてなんかいやしないのだッ!!!
「瞬間ッ!!! 誰もが皆 幸福(しあわせ)だったッ!!!!」

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