とよ田みのる「これ描いて死ね」1〜3巻

読まずに死ねるか!

ゲッサン少年サンデーコミックス



 実際、マンガにだいぶ救われていると思う。この面白いマンガの連載が終わるまでは死ねないよなぁ、と大仰だけれども、心の片隅で思っている。これが映画になってもゲームに置き換わっても、多分、同じなんだけれども、確かに、マンガに救われていると思う。
 とよ田みのる「これ描いて死ね」は、伊豆大島を模した島を舞台に、高校生たちのマンガ道……いや、ここは「まんが道」と書くべきだろう、キャラクターの名前からして、ね?……を感情表現豊かに描く物語である。
 正直言うと、私はとよ田作品の熱心な読者ではない。デビュー作こそ読みはしたが、そのあとは読んだり読まなかったり、なんだかとっても自分には合わない絵柄で、次第に疎遠になっていった。「金剛寺さん」からまた読み始めたとはいえ、その「金剛寺さん」でさえも自分の中では初読の興奮を継続・維持できず、読みたいという意欲が尻すぼみしく有様である。
 さて、今作はどうだろうか。イマジナリーフレンドめいた役割として主人公・安海相(やすみ・あい)の感情を解説するボコ太がラストか物語中途で消える=主人公の独り立ちあるいは成長として、わかりやすく物語の着地点(あるいは通過点)を提示してくれているのだろうが、そんな浅薄な分析を意に介さず、物語は群像劇へと展開していく。  けれども、私が今作に囚われてしまったのは、ひとえに第一話のモチベーションが全てであるといっても過言ではない。安海自身の「マンガは自分で描ける」という大発見である。敬愛するマンガ家・☆野0(ほしの・れい)のコミティア出店を聞きつけた安海が、コミティア会場を背景に、見開きで描かれる空に向かって羽ばたいていくようなダイブするような高揚感と幸福感に包み込まれた、あらゆるポジティブな感情が詰め込まれた「そっかー」に、納得してしまったのである。
 そして畳みかけるように手島先生の「嫌です」が、このマンガ絶対に面白い、最後まで読むぞ、という決意を固めたのだ。
 とはいえ、そんなモチベーションはなかなか長続きしないのも事実である。次巻が出るまでの間、忘れたり他のことに夢中になったり、マンガすら読まないことがあったり、気持ちを維持できない環境が世の中にはたくさんあるからだ。かろうじて次巻を待ち続けられたのは、私もこのマンガ読者の「仲間になる!!」という密かな誓いがあったからこそだろう。
 高校の部活動としての体裁を整えていく物語は、前述したとおり、物語を作る主人公としての安海に、作画を主に担当することになる藤森、正直かつ辛辣に遠慮なく作品を評する赤福が「仲間になる」ことで群像の体をなし、それぞれのキャラクターの内面を掘り下げていく。天才あるいは宿敵として登場する石龍も加われば、2巻にしてメンツはかなり揃ったともいえるが、それだけでは飽き足らず、物語は手島の過去のエピソードを作者の実体験をモチーフに描くことで、奥行きを増していく。
 安海の憧れの存在としての・シンボルとしてのキャラクター性が強く、何となく地に足の着いた感が足りなかった手島の言葉であるが、マンガ家時代の手島を描くことで、重みを増していく。一言一言が、まんが道をかつて歩んだ者の言葉としての(ひょっとした、また歩み始めるかもしれない期待感も込みで)、価値を増していく。マンガを描き始めた頃の自分を思い出しては、尊いと涙する場面に私も同調し、すっかり主人公たちを見守る立場で読んでいるのは、それだけ齢を重ねた結果だろうが、マンガに無邪気な彼女たちの言動に羨ましさも感じているのもあるだろう。
 3巻に至って物語は、読者の存在に焦点を当てていく。マンガへの愛を原動力としていた安海のアイデアが、SNSで四コマ漫画をアップして読んでもらおうという挿話から、「イイネ」の数を気にする作品を描くようになっていく。安海の家猫・フワをモデルにしたマンガのイイネ数の伸び悩みを当のフワに伝える安海に対するフワの表情が意味深い(一般的に、相手にお尻を向けて尻尾を振る仕草は、相手を馬鹿にしている、イライラしていると解釈できるらしい)。猫の表情からも、そんな感覚は伝わるだろう。
 ごちゃごちゃした画面はすっきりし、わかりやすい子猫の可愛さが前面に出された四コママンガは、多くの人に見られるようになったようだが、安海本人が「…これ 面白い?」と首をかしげるのである。石龍の率直な感想に自分を取り戻した安海は、マンガの路線を元に戻し、自分自身に納得するのである。
 この何気ない挿話は、次の挿話に対する前振りとなった。
 藤森の姉の挿話に、私はモチベーションを取り戻していた。ああそうか、私はこの作品を読む意欲を、少しばかり失っていたのか……という気付きでもあった。
 美術部として文化祭の展示に向けた作品作りは、たった二人の姉妹の部員だけではどうにもならなかった。しかも、藤森自身は、マンガだけでなくクラスの出し物や軽音部のポスターなど、その画力が周囲に認識され始めたこともあって、注文が殺到していたのだ。
 妹に対する激した愛情を隠しつつ、藤森姉は、迎えた文化祭で妹の愛情に直撃されることになった。あぁ、なんて素晴らしいんだろう、この愛情表現……実に尊い……尊いとは、こういう感情なのか……初めてわかった。妹のヒーロー発言は、姉から見れば、姉の視点からは妹こそ「君こそ私のヒーローだ」という隠されたフキダシがある、この表裏一体の姉妹愛、これを尊いと言わずしてなんという。
 母に対する告白マンガに加え、妹が姉のために描いたマンガ。これこそが、読者のために描いたマンガに通じるのである。まさに「そっかー」という大発見を私も体験したのだ。  次話で描かれる赤福の「そっかー」を待たずとも、本作はわかりやすい表現と端的な言葉で、物事の本質を突っついてくることに改めて気づかされた。愚直な表現が肌に合わないこともあるけれども、そこの魅力なくしてとよ田作品は語れない作風なのだろう。石龍が2巻でも3巻でも言っているではないか、「漫画に人を感じたい」と。
 藤森の絵は確かに綺麗でうまく描かれている。そういう設定というのもあるが、そういう作画として画面を制御している作者のトミイ氏の描くイラストへの信頼もあるだろうが、やっぱり、私は安海の絵が読みたい、安海の描いたマンガが読みたい。安海の描いたマンガにこそ、私は作者のマンガ愛を感じる。
 関節無視して伸び縮みする、ひしゃげたような手足の猫の荒唐無稽でめちゃくちゃな冒険活劇をもっと読んでみたい。その作品こそ、私にとっての「読まずに死ねるか!」という救いなのかもしれない。
(2023.4.24)
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