「日下兄妹」

講談社 アフタヌーンKC「虫と歌 市川春子作品集」より

市川春子



 傑作「虫と歌」の発表(2006年10月)から三年が経っていた。彼女の作品が月刊誌アフタヌーンに掲載される度に、普段買わない雑誌を購入した。その分厚さにやや辟易しつつも保管し続けていたのだが、引越しと未整理等により紛失してしまう。単行本化は私にとって「待望」と言うに余りあるほどの感激だった。
 4編の作品と単行本書き下ろしの掌編1つを含む作品集は、どれも再読に絶え得る美しさに満ちていた。一言で言えば、絵が好きだ、ということに尽きてしまうわけだが、マンガの要素として言葉とかなんとかかんとかとだいたい三つ抽き出す評論家が多いけれども、市川作品は、絵があればそれで事足りるほど簡潔な様式を潜めている。
 どの作品を取り上げても面白いけれども、ここでは雑誌掲載作品の中で唯一未読だった「日下兄妹」についての感想を綴りたい。
 簡単なあらすじ。プロも注目するほどの才能だった高校生投手・日下雪輝は、県大会決勝で幼少から酷使していた肩を故障し投手生命を絶たれる。部を去る決意を固めるも、仲間たちは彼の家を訪れては退部を思いとどまらせようと語りかける。たとえ投手でなくても、違う形で野球に関わり続けることが出来るのに、何故彼は野球を拒むのか。そもそも手術すれば治るかもしれないのだが、それさえも拒み続けていた。悪化していく肩。そして彼の家に突然現れた珍客は、生物なのかなんなのか判然としないまま、日常の中に溶け込んでいく。物語は日下と謎の存在・やがて少女然と彼のそばに居つくことになっていくヒナと名付けられた「妹」との生活に比重を置いていった。兄妹にはどんな繋がりがあるのか――
 市川作品の物語にはどれも日常にはない異世界の存在が混ざりこんできて、主人公の周囲に小さな波紋を起こす印象がある。これからどう変化していくかも楽しみだが、はじめから異世界の住人らしかった「虫と歌」と比べると、「日下兄妹」は随分と日常世界にべったりとした作品になっている。前半の仲間との交流、特に親しげに彼の家を何度も訪ねるようになる後輩の原は、高校生同士の戯れをさっぱりと描き、テンポの良い会話はおかしみさえ湛えている。
 球児たちのやりとりの間や流れが、次第にヒナとの交流に移っていく構成が自然だ。ヒナの成長にひとつひとつ簡潔な描写で意味づけしており、とても面白い。まずそこに注目してみよう。
 ヒナは元々タンスのネジあてだった。雪輝によって偶然外されたネジあては、ぴょんぴょん跳ねて屋内を駆け回り、彼を悩ましていく。少しずつ大きくなり足らしきものが生え、人の形を成していく。不思議な存在が、彼の日常にとって、居て当たり前の役割を得ていくことになる。彼の家を訪れる原たち仲間のように。
 劇中で明かされるように、彼は孤独だった。育ての親にしたくもない野球をさせられていたこともあり、部員とも深い交流があったとは思えない。それが肩の故障により、自分がどのような存在だったのかを自覚していくわけだが、それは結局、親の期待と変わらない鬱陶しさがあったかも知れず、その形状がためにではなくヒナだけが特別な存在として、彼の心中で屹立していく。その過程が、実に念入りに計算されているのである。
 その前に形状ついて触れれば、ヒナが、ネジあてから足が生え、頭が出てくる、人みたいになっていく様子が、そのまま彗星の成長を意識しているということだ。やがて二本足で人間みたく歩くわけだが、もともとは四本だった。この足が彗星の尾を模していることは言うまでもない。オールトの雲(ヒナにとってはタンス)から飛び出した小さな塊は、宇宙の塵をくっ付けながら大きくなっていき、太陽(雪輝。部員たちが彼を部の太陽と例えるのもあるね)に引っ張られて近づいていくと、時に雪だるまに形容されることもある彗星自身の塵が光って輝き始める。尾は伸びて成長していくのだった。
 「んだ ジョー」が、ヒナが最初に発する言葉である。わけがわからない言葉、雪輝たちはしゃべったと驚くが、これが数頁前でヒナを捕まえようとじゃれている雪輝たちのふざけあい・ボクシングから来ている。すなわち、「立つんだ ジョー」だ。描かれていないので想像するに、脱臼した雪輝のだらーんとした肩が、ジョーの両手ぶらり戦法にでもみえたことで原が言ったことかもしれない。で、ヒナも立ち上がることになる。その姿は小さな小さな少女を想起させるに十分だった。服を着せられると、ますますヒナは雪輝にとって妹としての立場を強化していく。
 ヒナは本を読んで知識を身に付けていった。異界のキャラが主人公の世界にやってきて、読書によってこの世界の仕組みを理解していく、というパターンはいくつもの作品からうかがえるだろう。「日下兄妹」も例に漏れない。短編ゆえに、ヒナは身に付けた知識をすぐさま生かして雪輝や周囲を驚かす展開が凝縮されている。
 料理の本を読んで雪輝に料理を振舞う。図書館に連れて行かれたヒナは、スポーツの棚で熱心に本を読むと、その後雪輝と原の野球ごっこでホームランをかっとばし、雪輝にボールの投げ方を教わると、原がうちの部に来ないかと目を瞠るほどの剛速球を投じた。宇宙・科学の棚で読書したのに続き、雪輝の腕が悪いことを知ると、ヒナは医学の棚で本を読み漁る。そして宗教の棚。ヒナは、自分が元々どんな存在だったのかを学び、宗教的な現象を起こして雪輝の腕を医学的に一瞬の外科手術によって治してしまうのだった。唐突に見えたヒナの告白「ヒナ 流れ星でした」には、彗星になっていく形状の変化・知識の吸収など、きちんと前振りがあったのだ。
 雪輝の肩の悪化は、ヒナの成長の一方で、「くさってきたのか」というセリフもあり、このまま本当にダメになってしまうのではないかという不安を劇中に秘め続けていた。これまで雪輝の望みを知識によって満たそうとしてきたヒナも、彼の決意には抗えないと思っていた。育ての親への反発、本当は野球ではなく宇宙について学びたい思いは肩を壊してでも貫きたいものだった。だがヒナの登場により、彼は何もかも捨てて「ひとりで」はじめから生きていくという言葉に、「ふたりで」と付け加えた。だからヒナはいつも彼に寄り添っていたけれども、拒まれかけていた雪輝の役に立ちたいという望みは、雪輝の何気ない一言によって叶えられることになる。「はなれるな 行くぞ」
 何があっても離れない場所は、雪輝の身体に足りない部品・故障した肩の一部だった。
 さて、市川作品の特徴として、背景にベタを用いる傾向が強いという点が挙げられる。昼間の場面でも、影としての黒はもちろのこと、青空を真っ黒く塗ってしまうのである。「日下兄妹」は、その黒さが効果的に演出されている。
 表紙の真っ黒な青空は異質な印象があるけど、画面左上で真っ白に輝く太陽のまぶしさが、親の意志から飛び出した瞬間を劇的に捉える。日(太陽)の下で雪が輝く、つまり彗星なのだ(ちなみに陽向と書いてヒナと読むわけで太陽に向かって行く、ヒナも彗星)。星に関する会話もあってか、黒い空は、宇宙の黒さを想起させる。140頁では、図書館に向かう途中の砂浜を歩く二人の姿を捉えつつ、おそらく残暑の強い日差しの中が推測される状況下(物語は親が商売の買い付けで居ない時期・9月下旬である)における海のトーンと空の黒さが印象深い。そして、黒さはラストシーンで鮮烈に生かされることになる。
 正式に野球部を退き、自分で決めた目標に向かって歩く雪輝。校舎の長い廊下の向こうには、どこかに通じている非常口が黒く縁取られていた。窓から差し込む光が届かない廊下の奥、トンネルの中に入ったかのような暗さに包まれるも、外に出ると真っ白な光線が雪輝の肩を射した。球場入りする野球選手を照らし出すカクテル光線のように、彼は、新しい人生のマウンドでヒナと共に投げ抜いていくことだろう。
(2009.11.25)

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