「リンガフランカ」

講談社 アフタヌーンKC

滝沢麻耶



 漫才で必ずやるネタってあるよね。通過儀礼みたいなものなのかもしれないし、先輩芸人に義務付けられてるものかもしれないけど、王道というのか、ネタとしては古典ともいえる噺があって、つまんないことが多いんだよ。売れたらこんなことやりたい妄想ネタ、小さい頃流行したアニメ・遊びの話題で同世代共感ネタ、「今日は僕達の名前だけでも覚えていってください」から始まる自己紹介的ネタ。流れとかネタ振りからオチ読みやすいし、飽き飽きしているんだけど、そんな中でも面白いネタに転がしていく漫才を聞くと、実力あるなーって思う。テレビとか舞台とかで同じコンビの同じネタ見ても、場の雰囲気を読んでいろいろやってくるのもいれば、毎回同じつかみで手を抜いてくるのもいて、芸人ってホントに苛酷だなって他人事然とニヤニヤしていたりもする。またテレビなんかお笑いであることを無視したカメラ割りで苛々するんだけど、漫才ってやっぱり舞台なんだよな、舞台ってのは演者の全身が見えるのが前提になっているんだよな、だから顔のアップとかコンビの一方だけ映すとかなんて全く不要なんだけど、そういうことをやってる番組を見ると、番組スタッフをハリセンで引っ叩きたくなる。では、コマで割っていかざるを得ない漫画は、どうやって漫才を見せるのかってところで滝沢麻耶の「リンガフランカ」である。
 気分はもうハリセン片手に読み始めた。いくら好きだからって漫才を漫画で描こうってんだから、それなりの突っ込みを作者は当然覚悟しているはずだけど、その覚悟の程を見てやろーじゃないかという態度で読み始めると、いきなり主人公・笑太の父親の自殺という出来事に、これはまた重い話だなーと振り上げていた手をおろして素直に読み始めたのである。
 主人公の不安定な精神状態を冒頭に持ってくることで、お笑いを主軸に据えながらも、彼の心の問題・自分の居場所探しという成長物語をもう一方に突き出してきたのだから、そっちに関心が向いてしまった。作者もその辺は心得ていると思われ、第一話こそつかみとしての漫才のネタが具体的に描写されるが、主題は笑太と岸部の二人の成長を描くことにあるんですよと囁く。漫才の描写よりも漫才を取り巻く描写を中心とするのだ。
 最初の舞台で描かれる二人。舞台袖から解説を加える他の芸人達の視線が主である。観客からの視線はほとんどない。突っ立った二人をテレビよろしく描いたって構図の変化に乏しいからね。笑太の心中を見せつつ、二人の即興漫才がいかに優れているかを語り合う出番待ちの芸人。漫才の描写がボケだとすれば、他芸人の解説が突っ込みに相当するのである。つまり読者の視線を突っ込み側に誘導しているのである。劇中で語られているように、ボケは突っ込みいかんで生きもし死にもする。ごちゃごちゃした構図で少々読みにくいコマ割なんだけど、読者をそちら側にすることで内容を理解しようという意志を働かせることに上手いこといっているんで、漫才のネタ云々ではなく、漫才をしている二人がどうだったのだろうかという想像に及ぶと、笑太の居場所は、ピンではなく突っ込みなんだなということが明らかになる。
 全体の物語の筋の運び方・ネタの落とし方もそうなんだけど、基本的に構成が非常に練られているんだね。ちょっとというか私にはかなり読みにくかったごちゃごちゃコマ運びなんだけど、余裕がないというか焦っているというか、でもそれとは裏腹に物語自体がしっかり根を張っているんで、揺れても軸が動かない強さがある。芸人の解説も野暮なところがあるんだけど・その後岸部が「ニッ」と笑うとこもそうだけど、ここは読者が突っ込み側に回っているので、笑太が蹴られても痛さではなく、寒いボケを上手く笑いに転換した岸部の笑いの瞬発力を感じる。いやつまりね、劇中の視点はいろいろと変わるんだけど、軸が安定しているから読者は惑わないってことなんである。笑太視点にしつつ岸部の精神的な問題を浮き彫りにするところなんてその例で、いくら視点があっちこっちに揺れてもちゃんと最後はマイクの前に戻ってくるみたいにきっちり締めている・オチを忘れないんだ。
 そして演出好きな点も読んでて楽しい。これも構成の上手さと重なる話だけど、第一話でトップバッター・前座だった二人が最終話でトリ・真打になるっていう大局観があるし、風に乗ること・高みへ飛ぶことを表現したトンビが、二羽で飛翔するラストシーンもいい。コンビの名前に最初こだわっていた岸部が最後どうでもいいと言ったり、ネタそのものにも全体を見据えた作者の視線があって、後半の展開は、前半のいろんなネタフリが生かされてくるもんだから、さっきごちゃごちゃしてるって書いたけど、あれは要するに後半のネタを転がすためにフリをいろいろと詰め込んだ結果なのかもしれない。そのしたたかさが鼻につかないのは、笑太と岸部の普段の描写を漫才化させていたためだろう。面白いんだよ、二人の会話。だから漫才の描写はどんどん減っていくのに全然不満が出ないというか必要ないんだ。第一話で漫才を描いたのも、二人の呼吸が出会ったばかりだから出来ていなかった・漫才と言う舞台でしかまだ見せられないというわけなんだろう。
 でも私が一番この漫画というか作者に惹かれたのは、漫才・お笑いをよく知っている愛してるってところだよ。お笑いの分析ではないんだ、お笑いに対する態度なんである。第4話で笑太の弟・喜助が電車の中で偶然聞いた会話「「二人が次に言うセリフを自分の笑い声でかき消さないために」笑い声を必死にこらえる(単行本146〜147頁)」(96頁の「笑い待ち」の対比である点も見逃せない)に心打たれたからである。ここは素晴らしかった。ああ、この人はお笑いの鑑賞を心得ているよって思った。
 さて、劇中で引用される町沢静男「ボーダーラインの心の病理(創元社・1990年)」という本の影響も作品全体を覆っている。携帯電話の排除がわかりやすい。リースマンという社会学者は1950年「孤独な群衆」という本で、いずれ情報収集に長けたレーダーのような人間が増えるだろうと予測し、実際そうなっている。レーダー人間について「ボーダーラインの心の病理」はこう述べる、「情報社会そのものは、その人の生きるための価値観や主体性を確保してくれるわけではない。むしろ奪うわけである」、つまり私たち自身が情報化して内面の感情が無視される・空洞化する危険性を指摘している。互いに殴ったり叩いたり怒鳴りあったりして感情をやり取りする笑太と岸部、レーダーではなく笑いという手段でしか互いの言葉を交わせない二人を表現するには携帯は不要なのだろう。生の言葉をぶつけ合うことで、二人の外面と同時に内面を描くには、情報のみのやり取りは邪魔でしかないのだ。
 太宰治が暗い海からやっと上がって、燈台守の家族の団欒を見て絶望を感じたように笑太も絶望しかけた。灯台守の家族の中にも見えない問題があり、個々に悩んでいたことを太宰は知らなかった。だが、笑太は知った。岸部を通して父親の気持ちを知った。ラストステージで笑太は海から上がって岸部(岸辺?)にたどり着く。そこは、弟の喜助や母親が見守り父親が体感していた、笑太にとってまさに団欒の舞台だったのだ。

戻る