藤本タツキ「ルックバック」

四コマの時間

少年ジャンプ+ 2021年7月19日号


 京本の四コマ漫画を読んだとき、そこに物語を感じたに違いない。台詞もキャラクターも描かれない。タイトルから想起できるように、おそらく放課後にクラスメイトが帰っただろう時間帯を選んで何らかの理由で学校に「登校」した人物の視線・見たものを読み取れるからだ。階段を上がって、教室に入って多分自分の席だろう机に付き、下駄箱を経て帰宅する、きっと振り返ってみただろう校舎が西日を受けている。
 陰影が印象深い、それらの景色は、隣の藤野の四コマと比べると絵の質がまったく異なっているけれども、運動会で皆を走らせない手段としてレーンを廊下にしてしまうという「奇策」は、京本とはまた別の次元の物語が当然存在している。
 クラスメイトたちの反応は、そんな物語に見向きはしない。冒頭で面白いねと言っていた子も、6年生になったとき、オタクになって気持ちがられるよと忠告をする程度の関心しかマンガに示してはいない。要は友達としての社交辞令だろう。
 いずれにせよ、京本に刺激を受けた藤野は、必死にスケッチブックへのデッサンに励んだ。自室で、教室で、時間を惜しんで描き続けた。ある時はクラスメイトが話しかけてくるのを嫌って図書館に籠り、またある時は親のテレビを観ながらの歓談がうるさくて、どこぞの東屋を机代わりにしてしまう。増える教則本、春夏秋冬描き続けた。読者にひたすら背中を見せ続けるその描写は、後述する感情移入をキャラクターに抱く契機としては十分に機能する演出である。
 そして6年生になって物語は再び二人の四コマを比較させた。
 「夏まつり」と題された京本の四コマは、何かしら物語を展開しようという意志が消えかけている。前半の二コマにこそ、お祭りの屋台が描かれ、そこを行き来している人々も顔がぼんやりしているが雑踏を描こうとしている。だが、後の二コマは何だろうか。いや、そもそも前二コマには人の視点がない。学校の中を歩き回ったことが想起された最初の作品は、まさに京本の視線の高さが感じられたが、斜め上から見下ろして描かれる構図は、ひょっとしたら現地に行ったわけではないのではないか、現実感に乏しい。まるでテレビ中継なんかを下に描いたような構図だとすれば、おそらく京本は夏まつりに行こうとしていくことができず、その行きか帰りで通り過ぎた景色を二つ選んで描いたのかもしれない。四コマ目の旅館と思しき家屋があるような人通りのそれなりにある街に行くこと自体が、京本にとっては大きな冒険だったのだろう。
 一方の藤野の四コマは、それだけでスリリングな物語を包含した豊かさに満ちている。京本の絵に比べれば見劣りする点は確かに多いだろう。構図、人物の俯瞰、笑う教師とそれをある思いで凝視する主人公。台詞がないことで生まれる物語性という点で、藤野作品は終始不利な立場にあるが、読者を面白い想像を刺激するという点では、つまり、物語性があるという点で非凡な才能がほの見えているのは間違いないし、その後のマンガ家としての飛躍も納得なのである。
 だが、藤野はあっさりと「や〜めた」と独り言ちる。これまで努力に努力を重ねてきた絵の練習も、さらにその上を行く京本の絵に、到底追いつけようのない敗北感を味わったのだろうか。涙ともいえない目元のアップから、私たち読者はさまざまな思いを想起するだろう。まるで京本の四コマ漫画を解題しようとするように。
 けれどもこの涙は、大粒の雨となって喜びの表現へと変貌する。京本からの思いがけない告白に、藤野は四コマを使って歓喜するのだ。歓喜するのだ! かつて京本の絵に対抗しようと決意した同じ帰り道、雨に濡れるのも厭わず、藤野は舞う。明るい背景が暗くなっても、行進するように両手を大きく振って歩き、スキップし、頬を紅潮させるのである。見開きで描かれた解放感は、京本との競争という世界から脱した解放感でもあった。まさにマンガ家としての悟りである。
 藤野と京本の合作マンガを描く景色をまた四コマで切り取ってみよう。藤野の自室で描くようになった二人。一頁を四等分したそれは、最初に自分の机に向かう藤野と座卓を間借りする京本のニコマを描くと、座卓に並んで座る二人、教室でも描き続ける一コマ。
 次のコマでは、執筆が佳境に入っと思われる、作品世界のキャラクターや次のペン入れを待つのか、ペン入れを終えて乾くのを待つのか、原稿がぶら下げられ、それでいてデッサンも忘れず人物の骨格は意識されている。背中を並べて本棚で何かを探す二人、そして整理整頓された部屋。マンガが完成したことが、八コマ目で察せられる展開である。台詞を用いずに、キャラクターの表情を描かずに、物語が動いた。動かせるのだ。
 だがこの時、物語にとって必要なはずの時間軸が消失する。部屋の片隅に描かれていた時計が消え、カレンダーが消えるような構図になる。消えるというのは単に描かれなくなるという意味ではあるが、連載デビューしたと思われる藤野が一人で描く景色は、それまでふんだんに描かれた自宅から見える天候や季節の変化さえも消える。別の別の道を行くようになってから、いったい何年が過ぎたのだろうか…… 「シャークキック」という作品の連載が進んでアニメ化にまで及んで、唐突に年月日が飛び込んでくる。ある予感を藤野に抱かせる。いや、読者に抱かせもする。もうすでに読者は藤野と一体化しているからだ。
 映画の登場人物に感情移入させるシンプルな演出がある。シンプル過ぎて、かえって難しい面もあるし、冗長あるいはワンパターンと受け取られかねないけれども、要は登場人物と同じ状況に観客を置くという手法である。最近愛する人を亡くした観客が、愛する人を失う映画を見れば、その登場人物に感情移入して感動を促されるだろう。けれども、全ての観客に最近そんなことがあるわけではない。犯罪に巻き込まれて友人を失うにしても、そのような事件に遭遇する観客も稀有だろう。では、観客とまったく同じ状況に置かれた登場人物とは、どのような人物だろうか。子ども時代? 学生時代? それもあるだろうが、本当にそれはシンプルに解決できる。観客すべてに共通している状況、それは今まさに、座席から身動きできない、という状況である。さらに付け加えれば、目の前で起きている出来事を、身動きできずに「ただ見ることしかできない」、ということだ。この状況に置かれた登場人物がいれば、観客は自然とその人物に寄り添うことだろう。たとえば、集中治療室で死にゆく愛する人を「ただ見ることしかできない」窓外の主人公に、死別の経験がない観客も感情移入するだろう。捕まった状態で友人が殺される劇的なシーンも、身動きできずに「ただ見ることしかできない」からこそ、憎しみが増すのである。
 では、マンガはどうだろうか。言うまでもない。マンガを読んでいるという状況・今この瞬間を描けばよい。藤野の背中は、ひたすら漫画を描いている場面であるが、読者にとっては、ひたすらマンガを読んでいる姿でもある。だからこそ、マンガ家に強く響く作品だし、読者だって負けてはいない。じっと一日中、オタクになっちゃうよと軽侮されても、マンガを読みふけり続けるのだ。藤野の背中と自分が重ならないわけがない。もちろん藤野や京本のような才能はないけれども。だからこそ、ちょっと距離を置いて、読者は唐突な時間軸の復活に戸惑うのである。何が起きたのか? 物語性を四コマから感じ取る経験をこの作品そのものから経験している読者は、それを容易に察してしまう。察してしまうのである。なぜなら、それが藤野の物語であるからだ。
 「出てこないで!」と藤野が衝動的に描いた引きこもり選手権の四コマ漫画から始まる妄想・もう一つの可能性に、京本が藤野と出会うまでの物語が提示される。そこで描かれた京本の練習の日々を切り取ったある四コマは、藤野の必死の練習と同様に、京本の背中から、京本の努力を感じ取るだろう。繰り返すが、それが藤野の物語であるからこそ、感じ取れるのである。
 「背中を見て」という京本名義の四コマが、藤野の絵柄であることも藤野の妄想であるからこそだろう。だが、読者は……というのは主語が大きいな……私は、これを京本の作品であってほしいと願わずにいられないのである。人の顔を描けなかった京本が、キャラクターの顔を描いた。背景で語るのでなく、藤野のように、キャラクターを動かしたのだ。だって京本は、藤野というマンガ家の誕生に大きく寄与し、舞い踊らせ歓喜させ、人生を動かしたではないか。
 三頁にわたる最後の四コマが、その証拠である。立ち上がった藤野は、自室に戻ると、四コマを窓に貼り付け、執筆を再開したことだろう。またしても京本は藤野にマンガ家として悟らせる動機を与えたのである。消えた時間軸は、今後、窓に貼られて増えていくに違いない四コマ漫画によって表現され、動き始めることだろう。

参考文献:中澤正行「「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析」2016

(2021.7.20)
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