Marieの奏でる音楽

幻冬社コミックス バーズコミックスデラックスより上下巻

古屋兎丸


 上巻の表紙を見た第一印象は、少女が自転車に乗っているのかと思ってしまった。伸ばした右手につまむようにして持っているものが何なのかもわからなかったし、何よりも古屋兎丸という作家は正直好きになれず数編の短編を読むにとどまっていたから、期待もせずに下巻の発刊を待った。それが出たらついでに通して読んでおくかという軽い気持ちだった。
 全編を読み終えると、確かな震えがあった。この作家の画力は改めて評価するまでもないが、物語に関してはあまりに自己本位過ぎやしないか・奇を衒いすぎてやしないかという多少の軽視をもっていた。それが吹っ飛んだ。隅々にわたって作りこまれた舞台の世界観の、一読にして理解できうる複雑さのない・それでいて完璧に近いほどの精緻な物語、劇中で語られているところの「巨大で精密で簡単なカラクリ」のような展開にひっくり返った。そうして上下巻の表紙を並べてみると、ピピのたまごを受け取ろうとするカイが現れ、陳腐だが本当に劇中のマルの如く感動してしまった。
 初読と再読でこれほど読み方が変わる作品に私は出会ったことがない。そして再読にこそこの作品の読み応えがたくさん詰まっているのだから驚きだ。自分がいかにいい加減な読み方をしていたのかと自省し、丹念に読めば疑問に思いそうな描写に対してさえ、登場人物たちと私の視線が同化し、そこにいないにもかかわらずいるものとして読み進めてしまう、罠にも似た表現力・ここで言うそれはカイの描き方(影の有無などが一等わかりやすい例)、カイと「会話」する周囲の人々の反応(マルが初めてカイと会ったときの場面の印象が再読で一層深みを増す)などなど台詞回しも含めて演出の細やかさに感嘆した。そして上巻62頁ではっきりと明かされたはずの衝撃をあっさりと吸収してしまう物語の濃密さ。
 私が強く感じた点は、カイが10歳の夏に体験した出来事が臨死体験であるという点と、何故に母親の存在が無視されているのかという二点である。
 まず最初の点について考えると、実際そういう状況に遭遇したのだから当然だろう。上巻109・110頁は臨死体験の典型である、闇(多くはトンネルのようなもの)から強烈だが全くまぶしくない光の中へ入る場面。カイがマリィの視線を感じる場面(131頁)は体外離脱体験みたいで、このときすでにカイは意識を喪失していたんじゃないかと考えてしまった。カイは選ばれたものとして、溺れたというより海底に引きずり込まれたという印象が自然な読み方だろうけど。そして152頁グウルの台詞「カイは10歳の夏、神の一部になったのです」が、この作品はカイの臨死体験の世界を克明につづった物語ではないかと思わせる決定打となる。
 臨死体験をもって死後の世界がどうのこうのというのは置いといて、重要なのは体験者の人生観が大きく変わった点である。端的に言えば、どの宗派に属していようと多くの人が神の存在を・物理的か抽象的な存在かはともかくとして身近に感じることと、人生において他人への愛情と知識の探求を重視すべきだと確信することが挙げられるが、これはまさしく作品世界の人々の人生観に等しい。偶然にすぎないけど、ある臨死体験者は神についてこう語る「神様は私の一部です」と。だからこの時点で物語の真相に気付くべきなのだが、浅はかゆえに、己の視線は他の登場人物からただ一人その存在を信じて疑わないピピに移行し、ピピに感情移入し、ピピの未来が気掛かりになっていたのだ。主人公はカイにもかかわらず。
 また二点目、カイはマリィに自分の母を投影していると思っていたものの、上巻139頁で否定される。いや、素直に母を重ねていると考えてもいいかもしれないが微妙である。ピリトの書「神の意志である精霊が父となり マリィが母となり 森は生まれた」と引用されているが、しかし、カイの耳を捉える精霊の囁きはすなわち父の声であり、これは鉱山で働いていた父の意志というより遺志をカイが強く空想した結果とも言えよう。このような考察はこの作品にとって甚だ無意味に思えるし、そもそも臨死体験者もまた体験の内容を説明するに言葉では表現できないことをよく訴えているからして、さて、そうなるとカイが読者に見せた行動や思考はいったい何なのかという、非常に虚無めいた喪失感を覚えるのである。
 私自身、この読書体験を言葉で表現することに対していささかの戸惑いがあり、なんというか、白状すると胸が痛くなった。これは物語の設定を説明するにとどめ、あとはひたすらとにかく読めと薦めたいところであるが、それでは余韻に抉られた心身が納得いかず、どうにかして失った思い・言葉を取り返したくぐだぐだと考えているのである。そうして行き着いた臨死体験という現象とこの作品を比べると、作品の着想をどこで得たのかと作者に直接問いただしたい気分にさせられるから困った。
 臨死体験の内容は個人の属する民族・宗教・習俗・文化に拠るところが大きい。マリィは地域によってさまざまな形に見られると語るグウルが指摘し最終話でも明かすように、カイの体験もピリトの地のそれに大きな影響を受けているのは言うまでもない。マリィがカイの中で現象したのは初めて礼拝堂で見たカラクリマリィであり、下巻で描かれるマリィ体内の出来事は、礼拝堂を想起させるに十分な描写である。つまり、巨大なオルゴールを前にしたカイが森の三賢者を従えて(あるいは従えられて)他の世界を夢見る場面は、礼拝堂のグウルと同じような立場なのであり、「天井に広がる水面」も礼拝堂が海面下・地下にあることの影響である。あらかじめ決められた行為としてカイはゼンマイを右手で巻く、右手でカラクリを操作するグウルもそれがしきたりのような面持ちでゆっくりと回す。そして動き始めるオルゴールが弾く旋律は、グウルの眼前で礼拝する人々のマリィへの崇拝に他ならない・不純物のない透明で少し哀しい旋律は人々の感情だったのだろう。
 ところでしかし、ラストの衝撃にまぎれて忘れるところだった物語の可能性も無視できない。構想段階で用意されていたと思われる物語の真実は中軸としてゆるぎないが、最大の難関がカイの最期をどう描くかにある。自分の意味を知ったカイはピピに「礼者になる」と言って別れるが、前振りはタッド巡礼で礼者を「かっこいい」と感じるカイがいるわけで、第15話は途中まで素直に読めた。「次 生まれ変わったら結婚しよう」という台詞の切なさも、違う世界で二人があっていた場合の物語が夢として描かれているだけに哀しすぎる。そして最期の場面が船上で崩れ散るカイである、これがどうも腑に落ちない。結局、カイ自身がカラクリの一部だったことから歯車やネジがぽろぽろ落ちるならまだしも、砂だもんな……。世界に拡散したってことかな。また、前振りを生かして実際にタッドへ旅立つという手もあるものの、カイの存在を考えると無理な話か。作者・読者ともにどう捉えていいのかわからない場面であろう。
 最後に。カイの存在の意味は再読によってわかりやすく描写されていたことを知った。同時に、カイがとても不安定な存在であることも読み取れた。群集場面でそれが顕著になる。ピピの誕生日・初飛行に臨むところで大勢が集まっているが、カイはどのあたりにいるのか判然としない。トットの隣・ピピの右斜め前にいるらしいが、俯瞰図からはよくわからない。ダムルの位置はわかるのだが。で、森の三賢者が出現する直前の人々の感情が爆発する場面も同様で、カイがどこに立ってこの状況を眺めてるのかがはっきりしていない。つまり、ピピがいてはじめてカイは自分の立ち位置を確実に出来るというわけなのか、単に私の読み方が甘いだけなのか。あと、自慰の場面で月明かりにカイの影が現れるのはなぜか、故意か、失策か。(と、いろいろ書いてきたが ここ を読むと作者の動機が単純であること・私の思索があほらしいことがわかる。もちろん、物語のカラクリは複雑極まりないのだが。とにかく、古屋兎丸氏、面白い漫画をありがとう!)


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