鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」1巻

キャラクターの余韻、読者の余韻

KADOKAWAコミックス



 久しぶりに訪れたと思ったら、実はもう何年も訪れていなかった場所に出くわすことがある。十年二十年という単位が簡単に出てくると、それだけ年をとったということでもあり、それだけ老いたと言うことでもある。昔育った町に久しぶりに行ってみれば、そんな感慨に耽ることは容易い。こういった感覚は歳を重ねれば重ねるほど、深くなっていくだろうことは想像に難くない。まして七十を過ぎれば、その感覚はそれこそ四十年五十年という単位で過去を振り返る機会もあるだろう。そこまでいくと私も想像すら出来ない時間の感覚に呆然とする。
 鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」は、市野井雪という75歳の老人を主人公に、たまたま涼みに入った書店で、たまたま絵がきれいだと思わず手にしたマンガを購入する挿話からはじまり、その書店員でバイトをするBL(ボーイズラブ)好きの17歳の高校生・佐山うららとの偶然の出会いと交流を描いていく。市野井が手にしたマンガ、それはBLと言われる男性同士の恋愛を描いたジャンルの作品だった。その冒頭の設定だけを取り出せば、老人とBLという、なかなか想像できない取り合わせが奇妙であり、下手をすれば単なる出オチになってしまう物語だが、市野井と佐山の年齢差を劇的に描くことで、時間に対する考え方の違いを残酷に描いていく作品でもある。そもそも冒頭のモノローグが全てと言っても過言ではない。「知らない間に 時間って 経ってるのよね」
 この残酷さは、物語が進行するにつれ、次第に二人に重くのしかかるだろうことは察せられよう。二人のキャラクターの時間という距離感は、そのまま読者とキャラクターとの距離感にもつながっている。第5話である。男の子同士がキスするまでに至ると1巻を読んで続きを読みたくなった市野井は、すぐに2巻を購入するやすぐに読み終え、3巻を求めて先の書店に駆け込んだ。この段階ではBLに嵌ったというよりも、面白い作品に出会えた喜びが勝っているだろう。続きが気になって仕方がない。佐山のとりなしで3巻を注文し、後日、無事に手にすると、本編を読むのを惜しんで何気なく見た奥付の発行日から、単行本の刊行ペースを知る。
 一年半で一冊。完結するまでにどれほど年月がかかるか、どれほどの巻数を費やすかは分からないが、この時間を知った時、市野井は咄嗟にいくつまでに何巻読めるだろうかと計算をする。85歳まで生きたとして6巻分は読めるだろうと考えると、「90歳まで がんばります」と呟き、死別した夫の仏壇に視線を向けるのである。
 人生の残り時間を計算する彼女に、歳をとるということが時間との競争でもあることが理解される。それでいて時間の経過というものには鈍感になっていた。振り返ればあっという間に時間が過ぎたように感じるのは年齢を重ねた者にとっては避けようのない感覚であるが、市野井と佐山の中間に位置する私程度の年齢でもそのような感覚があるのだから、本編の主人公の時間感覚は空恐ろしくもある。
 さてしかし、もう一人の主人公である17歳の佐山にとっては、過ごした時間というものは市野井ほどの切迫感はないが、それでも過去の思い出が今の自分を押しつぶそうとする感覚があった。そして、学校で自分の居場所がないということも切実だった。クラスの中で孤立し、幼馴染の紡(つむぎ)という少年はいるものの、彼には付き合ってる彼女が既におり、佐山は一人でいることについて不安を覚えながらも、ではどうやってクラスメイトと打ち解けていけばいいのかということについて、全くビジョンがなかった。バイト先では同僚や店長とそれなりのコミュニケーションを取っているが、同じ趣味の話題で盛り上がりたい・BL好きの仲間と楽しく過ごしたいという気持ちが人一倍強いにも関わらず、友だちが出来ない孤独感は、市野井との出会いによって一気に解消していく。もちろん、市野井にとっても漫画を読むのは30年40年ぶりのことであり、楽しみが増えるというのは人生の終盤において、とても刺激的なことではあるだろう。
 けれども、この作品の面白さは、設定よりむしろ、二人の女性の成長過程を柔らかいタッチで描いているという、優しさが作品全体を覆っている点にある。優しさだなんてずいぶんと曖昧な説明だが、市野井というキャラクター性がそれを体現している。バスに乗り込むときに後ろから走って来た子どもとその母に席を取られても、彼女は何も言わない。描写としては、老人に席を譲らない親子という場面であるが、彼女は「……」と親子を見詰めるだけだ。読者は彼女の内心を、思いやりがない親子とか身勝手とか思うところがあるだろうし、実際にそんな考えを彼女は抱いたかもしれない。だが物語は、彼女の負の感情を表立って描こうとしない。自宅で開いている書道教室に通うおじいさんが彼女を想っているらしい場面もあるが、彼女はその想いをそっとしておくに留める。注文したケーキが思いの外大きくても腹を立てたりしない。
 かぼちゃを切る場面で、一瞬、場面が静止し彼女の負の感情が発露しかける。安さに負けて丸々一個買ってはみたものの大きすぎるので、とりあえず半分に切ろうと包丁を入れるも、力が足りずに切ることができない。「かぼちゃの ひとつすら」と続くが、次の言葉が描かれることはない。席をとられた親子に向けた視線のように、彼女は言いたいことを読者に言わない、余韻に任せるのだ。
 彼女が抱えている余韻は、作品そのものの余韻と繋がっている。
 第1話の終わり、知らず知らず読んでしまったBL作品、男の子二人が最後にキスをする場面で、彼女の表情が「あらら」という驚きとちょっとした興奮の混じったセリフと共に描かれる。その次のコマで、夜が更けていく町並みを描くのである。電車のガタトンという音や、ワンワンという犬の声が聞こえる。電車が走っているのだから、そこまで夜は更けていない。布団の上にうつぶせになって眼鏡をかけ、すぐにでも寝てしまおうかという態勢でマンガを読みはじめたのに、頬を赤く染め、目の前で実際にキスするカップルに遭遇したかのような表情、暇つぶし程度にしか考えていなかったはずの時間、過去の漫画体験を思い出す程度のはずだったのに、意想外の展開が待っていたのだ。暑い暑い熱をもって彼女に高揚感をもたらす。これからの長い夜、1巻を読み終えた余韻を夜更けとともに味わう。
 第3話のラストを見てもいいだろう。母と二人暮らしの佐山はバイト帰りに母のパート先に出向き、母と一緒に帰宅する場面である。二人の会話から父と母が離婚していることが分かる。そして父と面会する日が近いことも明かされ、「 めんどくさい…」と言う娘とそれを軽く窘める母の様子が描かれると、次のコマでは、歩道橋を渡る二人の姿が、ほとんど背景と一体化して描かれるのである。夕方の暗くなっていく時分、母子二人のたわいもない会話、「めんどくさいって あんた」と言いつつ、母は娘の気持ちを察しているのだろう、「オホホ」と笑う。日常に溶け込んでいく、いつもの景色だが、読者にとっては新鮮な光景だ。そこを損なわずに余韻を込めて描く。三人がどのような関係なのかが、想像する読者にうっすらと見えてくる。後日、父と映画を見た後の感想を簡単に言い合う場面から、父の人に興味がなさそうな、ただ淡々と娘との時間を共有している義務感みたいな素っ気なさを描くことにより、第3話の余韻に感じた親子関係が具体的な形をもって立ち上がる。
 第4話のラスト、思いがけずお茶に誘った市野井は佐山と軽食を共にする。お店への入り口は、急勾配の階段を上る必要があった。後ろをついていく佐山は、市野井の足や背中、後ろ姿全体に目をやる。年老いた様子を見た瞬間、私は佐山が市野井の年齢・老いというものを感じるのではないかと思ったが、彼女が考えていたことは、BLについて話せる相手ができたこと・出会った偶然についての感覚が勝っていたのである。息切らしながら階段を上る老人を前に思わず手を貸す、あるいは、せっかく出来た仲間が老人だったということに、ひどくがっかりしてしまうではないかとも思われたが、彼女は仲間が出来た喜びを余韻として味わうのである。
 市野井と佐山の間に今後大きな問題になるだろう時間の問題は、同じものを観ても受け取り方が異なるという当たり前の事態にも直面するだろう。時間の感覚のずれは、その一部なのだ。そして、読者とキャラクターの間にも、その認識はズレとして立ち上がってくる。あえて全部言わないことで通じ合っていると錯覚する作品の持つ味わいを肯定的に述べてきたが、その実、本当の気持ちははっきり言わないと理解されないし理解できないという側面もある。そのBL作品の男の子の一方に、はっきりと自分の気持ちを言わないことに憤っている市野井の姿は、彼女自身が作品としての基調を余韻という形で、あえて最後まで言わないことによって演出する姿そのものであることに気付いてはいないし、佐山にとっても、最後まで気持ちを伝えきることができないことで迎えてしまった今の自分を後悔しているような面があった。
 この作品の表紙からして二人の感覚の違いを如実に表している。「縁側」というタイトルから、縁側で漫画を読む二人である、という単純なものではない、やはりここにも感覚の相違が二人の間に、生きた時間の差とともに溝となって横たわる。一軒家に住んでいる市野井にとって縁側は、おそらく様々な思い出があった場所に違いない。だが、アパートに住んでいる佐山にとっては縁側というものがそもそも存在しない。存在しないし、縁側自体慣れていないのではないか(もちろん、父母の離婚前は縁側のある家に住んでいた可能性もある)。彼女が初めて市野井の家を訪れた時、縁側から自宅に上がり込む場面がある。彼女は家の中の様子をつぶさに見詰めた。鉢植え、飾られた書道教室の生徒が書いたと思われる「薔薇」という文字、床の間。自宅とは異なる空間。遠慮と興奮が混じり合った表情である。
 二人を繋ぐBL作品を縁側で語り合う場面、第7話のラストが第1話のラストに似ていることは偶然ではないだろう。劇中劇であるBL作品のラストを佐山が思い出すような体裁をとりながら、最後のコマが夜の街並みで終わる。劇中の二十代の青年二人、一方は相手の気持ちにいつまでも不安を感じていた。それに対し、言わなくてもわかるだろうと言うもう一方のキャラクターが俯いた彼に顔を寄せる。そして夜の町並み。この後の二人の様子を余韻として想像させつつ、私はこれまで佐山が学校で感じていた劣等感というものを思い起こした。今一歩踏み込めない自分自身の気持ちをこの作品のキャラクターに投影しているのではないかとも思える。クラスメイトと打ち解けるには、彼女は踏み出さなければならなかった。その一歩を踏み出しさえすれば、待っているのは言わなくても分かり合えるような、このキャラクターのような関係性。かつて幼馴染だった二人。そこに、新たに自分と市野井との関係性を当てはめる。もちろん、ここにも二人の感覚のズレはある。次の単行本が1年半後であるということに溜息を吐きながらカレーを用意する市野井の表情を佐山は知らないし、市野井にとって彼女との交流は、亡き夫との交流を思い起こす契機になるだろうことも佐山は知らない。
 佐山が幼馴染の紡に恋心を抱いているかどうかは現時点では断言できないけれども、彼女と手をつないで下校する紡を目撃した時の佐山の表情は、一瞬頬が赤く染まった。あの表情が昔から紡が好きだったことを想起させよう。紡と、結婚を控えた紡の姉の梓と、影絵をして遊んでいた場面が回想されていた。一人ぼっちになってしまったという実感もある。一方の市野井の相手である夫は既に他界している、子どもは外国で結婚しているようだ。顔見知りはそれこそたくさんいるようだが、友だちは登場せず、書道教室に通う子どもや老人が市野井にとっての仲間と言えなくもないが、彼らとの交遊はほとんど描かれないし、彼女自身重要視していない。病室の待合室で何度も何度も同じクロスワードパズルをただ時間を潰すためだけに、繰り返しやっていたという場面が描かれる、老人の日常というものを表現した一挿話である。だからといって、全ての老人が時間を持て余しているわけではない。ひょっとしたら老人たちは、有り余った時間と残りの時間というものを意識しながら、実に有意義に過ごしているのかもしれない。これはおそらく作者自身がイメージする老後を投影しているからだろう。と同時に、孤独な高校生像は作者自身の高校生時代を思い起こせばいいわけで、体験できない世代をどう描くかというのも今後の注目である。
 私たちが想像する老人世界をそのまま描いても、それはそれでひどく陳腐なものになってしまう。BLを読むという設定により、陳腐さを最初から排除している点がこの作品の強みだ 。BL作品のキャラクターが互いの気持ちを告げる瞬間に合わせ、市野井と佐山もいつか自分の気持ちを告げる時が来るかもしれない。その時描かれた物語の余韻は、初めて読者だけのものとなり、読者がキャラクターと過ごした時間が、その読者だけの思い出として立ち上がってくるのである。

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