宮崎夏次系「なくてもよくて絶え間なくひかる」

お花畑で昼寝をすれば可愛いあのこの夢を見る

小学館 裏少年サンデーコミックス



 NHKの某チコちゃんという番組で、子どもはなぜウンコが好きかという話題があった。結論から言えば、フロイトの説を今更持ち出すのもどうかなとは個人的に思いながらも、子どもがウンコを自分の分身として捉えているという、幼児期の体験を元にしたその説は、にわかに信じがたいものではあったが、まあその真偽はともかく、実際に子どもはウンコが好きである。自分でうんちと言っては笑い、人を指さしてうんちと言っては笑う。そこには悪意というよりも、むしろウンコやクソそのものに対する偏愛とも言えるものがあるだろう。
 さて、宮崎夏次系の長編漫画「なくてもよくて絶え間なくひかる」である。私はこの作家の名前を以前から意識してはいたが、実際に作品を読むのは「夕方までに帰るよ」以来である。その作品はあまりにも奇妙で、私はうまく作品を昇華することができなかったわけだが、この作品は、主人公・並木とその家族らのキャラクターの描かれ方やクラスメイト町山の変化など、こりゃ一体何だろう、という突っかかりがありつつ、ボーイミーツガールという万人に受け入れられやすい導入部もあって、すんなりと冒頭から二人のキャラクターの未来に期待を寄せて読み進められた。ただ正直、言い訳として最初に言っておくが、私はこの作品の主題とか作者の主張とか、よくは分からない。だが、はっきりしていることはある。それは、並木にはゴールデンユキコというイマジナリーフレンドがいること、高校生になってもウンコのパラパラ漫画を書くほどに幼児性が極めて強いということである。だからといって、彼を幼稚と断言するだけではない。彼には家庭の事情があり、学校の希薄な友人関係も孤高といえば聞こえはいいが、単なるぼっちの高校生として、ゴールデンユキコや他のイマジナリーフレンドと思しきキャラクターを登場させることで、自分はどこかで一人ではないと納得させているような節がある。だから教室で唐突に隣の席の町山に声を掛けられた時の彼のあの平静を装いながらも明らかに動揺した、そして町山の誘いに一切乗ろうともしないコミュニケーション能力の欠如は、一人ぼっちは嫌だけど一人でいたいという矛盾した思春期らしい性癖をかなりこじらせている。
 しかしながら、その幼稚性は現実逃避というもっともらしい言い方で平凡すぎるが、実際にそう考えられるイマジナリーフレンドを生んでいた。例えば18ページ目に唐突に現れた並木の友人と思われるキャラクター、 並木家に突然訪れた越後の爺さん・人工呼吸器を付けるほどの余命幾ばくもなさそうな車椅子のキャラクターだが、それについて報告をしているかのようでその対話はどことなくぎこちない。電車の中の町山との対話には、ディスコミュニケーションとも言える並木の無関心さを描きながらも、このキャラクターのとの対話には逆に全てを解り合っているかのような印象が、かえって不自然さとなって描かれる。同じようなタイミングでゲップをし同じようなことを考え同じように眠くなる。でも、実際のところはわからない。そもそも、「ユキコ」が小さい頃に飼っていたペットの名前だと思われる場面があり、「ゴールデンユキコ」は彼の想像上のキャラクターには違いないが、ユキコは確かに存在していた。そのユキコが読者の前に現れると、変な名前だし、本当にこんなのがキャラクターとして存在しているのか、名前だけでもって、その存在を疑われることになる。
 ユキコは並木の前に現れた。自分の空想のキャラクターが現実に存在した、という作品は、もちろん、これに限らず過去にいくつものあるわけだが、本作の場合、並木にとってゴールデンユキコは一体何者なのかという説明らしきものがほとんどない。名前の由来となった経緯が仄めかされる程度で、実際に並木のフレンドは例の彼であって、過去にゴールデンユキコがどんなキャラクター設定で並木と接していたのか具体的なエピソードもなく、読者にも私にもわからないままで、ついにユキコが並木の前に登場しても、本当に実在するキャラクターなのだろうか?と当初の疑念が消されないままに、読み進めることになる。
 並木にもどこかにそんな疑念はあったに違いないだろう。大縄跳びで数を数えながら登場し、目の前で跳躍する印象的な場面、本作でも屈指の名場面だが、ここでようやく確信する、「今日は消えないんだ」というモノローグが、これは現実だと実感させた言葉だ。
 ウンコのパラパラ漫画を突然現れた女性に見られ、その感想は哀れにも突っ慳貪で、思いやりの欠片もない。にもかかわらず並木は、そのパラパラとめくることによって生じた風・ウンコ風が彼女の髪を揺らしたという、ただその一点のみに衝撃を受け、頬を染めた表情から、並木がどういった感情を抱いたのかはいうまでもないわけだが、前述の通りゴールデンユキコは一体何者なのかということは読者には知らせてないし、言葉だけによって保証されているゴールデンユキコの存在は、並木の言葉だけが頼りの、脆い存在である。
 この物語の上手さは、読者が何となく感じた違和やリアリティを、直接的な描写でもってすぐに他のエピソードを突っ込んでくるところである。大縄跳び本番前の練習でユキコは実在したんだという安堵感を突き崩すように、父親が現れる。別居している父親の存在が、並木の態度からどういうものか容易に想像させられる。母親の言葉が強烈である、「パパなんだから あんたには一生。」
 けれどもやはり本作の魅力は妄想、そうした物語性ではない。唐突な場面転換やキャラクターの躍動感が、コマ割りやページめくりといったマンガ演出で表現されている点である。
 まだ名前を知らなかった彼女をレストランで爺ちゃんと食事中に目撃、その帰り、偶然見つけたある画集に目を止めると、爺ちゃんに絵が好きなのかと問われる。首肯する並木、思い出されるように描かれるウンコのパラパラ漫画が描かれた教科書。キャラクターの回想の跳躍力である。彼女の「あの人の書くものはつまりません」発言を自分のことのように受け取る→絵が好きからのウンコの絵を描いた教科書と、本来全然関係ないやりとりが、彼女とウンコ絵によって結び付けられ、彼女は何者なのか、という並木の感覚が読者に伝えられるや否や、探す手間をすっ飛ばして、いきなりページをめくると名前を尋ねる場面になるのだ。しかも「くだされ?」と自分の言葉を自問し、「ユキコさん」と想像上の名前で唐突に呼び掛けると「え?」と自分で驚いてしまう。ユキコの横柄で「暴力」的だと直感する並木の思案に対し、身体はユニークにも飲み物の曲芸飲みに反応する。
 一連の展開は、並木の内心と行動が一致せず、違和感を生じさせる効果がある。本当に思い通りの人が現れたというという感激と、実際には異なる反応に戸惑い続ける、自分のようで自分でない感覚をマンガ表現の演出に組み込み、読者自身に並木の違和を感じさせるのだ。ユキコの言動の突拍子のなさを起動力として。
 町山のとりなしでどういうわけか次の金曜日まで付き合うことになった並木とユキコだが、使いっ走りのように昼休みにパンを買わされ、突然蹴っ飛ばされ、その拍子で木の上に引っかかった上履きを取ると直後にわかるのだが、馬乗りにされて高く立て高く立てと煽られる。「ありがとう 助かった」というユキコのお礼は、上履きを取れたことに対してか、毎週金曜のお見合いを回避できたことなのか、ごちゃまぜになっている。そして並木への好意を発すると、もう何が何だかわからない。118頁、喜んで飛び跳ねる並木の描写も、右から左でアクションすべきマンガ文法の基本を無視して左から右へ跳躍し、読者(というか私)はまたも違和を覚える。そして「好き」という言葉から連想するように、並木を見詰める竹智の視線を描くのである。
 ウンコ絵が得意で人物画が苦手な並木は、美術科で時々勉強させてもらう行動に出た。そこで出会う竹智という少女が、後に並木に対して積極的に好意を伝えることになるのだが、まあそれは後に置いといて、違和は至る所で読者を戸惑わせる。物語の展開やキャラクターの設定を掴み切れてない私は、ただただ翻弄され、意味は何だろうかと考え、意味なんてないんじゃないだろうかと思案する。127頁で対話する並木とユキコの間には、電車を待っているらしい椅子に座った老人と「歯」という看板や、バーベキューの後に一駅分歩こうとするも迷ってしまうユキコに並木は唐突に「おどろう」とよくわからない踊りを道端で誘う言動など。ここでは、通り過ぎる車、ユキコのアップ、見詰めあう二人、断られたことをモノローグで説明する並木。そして竹智の並木を見詰める視線と、意味らしきものが展開されるが、では何故踊りなのか、という唐突さについての説明はない。うがった見方をすれば、これはラストへの前フリであると深読みできるだろうが、全く関係ない。縄跳びや父親に殴られたり竹智のぬくもりの中に顔をうずめたり、物理的な感触を得てもなお、並木は映画館で、その父親すら幻想ではなかったのかという自問自答し、私がこれまで抱いていた物語で描かれた世界に対する戸惑いを妄想ではないかと結論付けようとする。けれども、竹智にぶんなぐられ、やはりこれは現実なのだと考える。「こっちが現実だ」と言って走り出す並木は、マンガの右から左の流れに沿って、物語や時間の流れに沿って違和なく現実に向かっていった。去っていくイマジナリーフレンドが左手奥に手を振りながら消えていく。そして、病院で爺ちゃんに会った並木は、「行ってもいいかな 今度 そっちへ」と告げるのである。そっちとはどこだろう? 現実? 妄想? 話の流れだけみれば爺ちゃんの住む新潟であることは明白であるが、私は、一瞬迷ってしまうのである。物語は明白になりつつあっても、これまでの違和感に阻害され、ごちゃまぜになった感覚が、簡単な理解すら阻んでしまう。
 物語も中盤から減っていったように思える描写がある。単なる感覚的なものだ。厳密にはたいした変化はないだろう。でも、そう感じるほどに、物語は並木の世界に少しずつ少しずつ没入していった。モブシーンである。かつて手塚治虫が鳴らした見開きのモブ(群衆)シーンは、さまざまな作家に異なる形で受け継がれていく。主人公を取り巻く雑多な騒音の一種として、それは変化して描かれていった。物語にとってなんの影響力も及ぼさないはずの夾雑物である。擬音としてセリフとして、たとえば下図のように、ザワザワと処理してもいい雑踏を具体的な言葉としてしまう。「スコースコー」という爺ちゃんの呼吸音が、かろうじて並木と物語をつなげているが、周囲の音に紛れて消えてしまいそうなほど、このコマの並木の存在感は薄い。もちろん手塚のモブシーンと比べるマンガ史的意味はない。小さなコマとはいえ、今のモブシーンは精緻な背景や周囲の人々のなんてことない会話になったということだ。
43頁
15頁
 だが、たとえば電車内のこのコマには、前後で盛んに描かれたガタンゴトンといった擬音が描かれない。並木がゴールデンユキコの存在を感じている内面世界だからだ。こうした周囲の擬音の描写はなくなるわけではないが、並木がやがて全て妄想ではなかったのかと考えてしまうくらいには、周囲の雑音が消えていく。彼の考えていることが、感じていることが、言葉となってコマに綴られ、モノローグとして語られる。ついには、自大した町山の破裂音すら聞こえずに、光った体液が飛び散る。もちろん並木の妄想に過ぎないけれども、まるで本当に目の前で起きたことのように……爺ちゃんの格好がパイロットみたいだからと跳躍した場面から、丸まった背中を晒してファミレスでおもちゃの飛行機をもてあそぶ場面からの雷鳴。現実的に考えれば、町山の光は稲光と重なった姿だろう。けど、そんな答えを求めているんじゃない、確かな感触が欲しいのだ。「せっせっせーの」から始まる二人の手遊び。いや、遊びと言うには激しく速すぎるほどの超高速手合わせは、アルプス一万尺だろうか。さてしかし、こんな場面・二人だけの世界であっても、その狭間には、具合が悪くて気絶したみたいにベッドで横たわった町山と言う違和感がいる。駅のホームでかつて二人の間にいたたまれない表情をしていた老人のように、現実は、常に何かしらのざわつく夾雑物が存在している。でも、もうそんなものはどうでもいいだろう、ただ、ユキコという存在が確かに目の前にある。夢の続きは、わくわくする現実なのだ。

戻る