「波よ聞いてくれ」1巻 おまえの覚悟を見届けよう

講談社 アフタヌーンKC

沙村広明



 昔々にラジオの聴取率のアンケートに協力したことがあって、たぶん無作為で選ばれた私の元に訪れた方も今となっては男か女か思い出せないけど、番組表が何週間分かが束になったものに、聴いた時間を書いたり印付けたり、まあそのやり方もだいぶ忘れてしまったんだけど、とにかくそうしていくわけだか、場所を問わず聴いたら書いてくれと念を押されたのを今も覚えている。正直、ラジオを聴く習慣なんてなかった私にとって、申し訳ないけど何も聴かずに謝礼、確か図書券で500円だったような気がしたが記憶違いかもしれないけど、その謝礼だけ受け取って終わるんだろうなと思っていたのだが、例えば本屋でマンガ雑誌なんかを立ち読みしているとき、あ、そういえば今流れている音楽ってラジオじゃん、と気付くと、思いのほかラジオを聴いている時間の多さに驚いたものである。
 そんな思い出話はともかく、沙村広明「波よ聞いてくれ」は、ラジオ業界を舞台にした現代劇である。自分自身、沙村作品は久しく読んでいなかったんだが、特に興味がなかったわけでもないし、たまに出る短編もちらっと読んでいたりもするけれど、時代劇の連載が長すぎて、もう読み飽きていたというのが本音だったんだよね。けど、思いがけずwebで公開されていた「波よ聞いてくれ」の1話を読んだとき、これは面白いマンガが始まったなと言う高揚感があったのは事実で、それから幾月が過ぎて漸く単行本としてまとまった1巻を、高い期待値を持って読み臨んだら、期待以上の面白さに、興奮冷めやらず、といった按配である。
 でも、ラジオってマンガとしてどう表現されるんでしょうね。話す・聞いた内容を想像して劇画化するってのは、最近では榎屋克優「テキサスレディオギャング」ってのがあって、これは言葉をマンガに落とし込んでいたけれども、そもそもラジオドラマをテーマにしていたから出来た芸当なんだ。「波よ聞いてくれ」はそうじゃない。確かに冒頭で主人公・ミナレが語る失恋話は、絵にして劇画に出来そうな内容だけれども、徹頭徹尾、彼女の言葉がフキダシの中に列挙され、読者は彼女の言葉から、彼女がどのようして振られたのか、捨てられたのか、金をせしめられたのかを想像する……というわけではないのが面白いところなのだ。
 ここで重要なのは彼女の話している内容じゃないのだ。話を聞いている周囲の状況やその反応なんだよね。だから失恋話を劇画化する必要性がないし、それは傍流に過ぎない。
 カレー屋で働くミナレの耳に唐突に飛び込んできた自分の声、その内容に聞き覚えがあるのはミナレだけではない、読者もそうだ。だから、読者は彼女がどう反応するかってことに意識が働き、失恋の経緯はどうでもよくなっていく。もちろんその話をないがしろにするわけでもないし、それは「光雄、殺す!」ってのに繋がるわけだから、失恋話にもきちんと意味がある構成になっていて、彼女がどのようにして捨てられたのか想像する余地がなくとも、彼女の感情に共感するだけで十分に読者を物語世界に誘い込むことが出来るのだ。そして、その後の彼女の話に耳を傾ける人々の表情をカットバックしていくことで、彼女の感情は読者だけでなく、物語のキャラクターたちにも共有されていくと、読者もキャラクターとして、道民の一人として、彼女の声を聴いている感覚を味わえるわけ。
 3話のお祭りの話もその構図を崩さない。ラジオとして流されるミナレの語りは、ラジオの音源ですって感じのフキダシで描かれるけれども、それを聴いているともなんともつかないミナレたちは、祭りの準備に忙しなく、ホントにどうでもいい感じで言葉が列挙されていく中で作業に追われている。邪魔にならないBGMとしてのラジオの語りが、ここで表現されている。こんな感じ。ラジオを聴くって感じの素人でも想起できる雰囲気がここにある。
 でもその一方で対話の場面となるとラジオを聴くようにはいかない。5話のミナレとディレクターの麻藤の会議室と思しき場所で、ミナレは冠番組を持たないかと持ちかけられる。もちろん、素人にいきなりそんな無謀なことを、という読者の予想を踏まえたオチはきちんと用意されているのが心憎いんだけど、ここの場面、机を挟んで向かい合う麻藤とミナレで、話の主導権を握る麻藤と慎重に慎重に彼の言葉の裏を探ろうとするミナレの駆け引きの影で、重要なキャラクターとして単調になりがちな対話の構図の刺激剤として機能するのが、ADの南波の存在なのだ。
 家賃が払えず退去せざるを得なくなったアパートを出て、後に世話になることになる南波、彼女のかわいい容姿はまあ置いといて、目立たないながらも1話から何気に登場しているんだけど、それはともかく、お茶出しのコマと、コマの隅っこでミナレの隣に座ってディレクターと対座するってのが、もうラジオ番組の関係になっているのが面白いんだけど、この目立たない彼女が、ミナレと麻藤の対話に作品が没入すればするほど、あと、この対話の途中でミナレの靴を描くのもポイントなんだけど、まあそれは後にして、この二人に構図を迫って行けば行くほど、不意に描かれる南波が、この作品で描かれるラジオの世界の解説役としてミナレを補佐する。「口説かれてんですか」に対する受けや、「サウンドハイタイド」の説明役、二人の邪魔をせずに、かつ、麻藤が望む方向にさりげなくミナレを導きつつ、ミナレのタメ口に応じている。そして、実はすべて知ってましたって感じで、唖然とするミナレの表情をうかがう南波の意味ありげな表情により、その後の展開にすんなり導入するきっかけにも働いていて、ミナレの靴、それまでのミナレの靴はパンプスみたいな靴が強調されていたからだけど、この靴のアップから南波のアパートの玄関にやってきた構図と部屋での会話も含めて、流暢で心地よい声を聴いているような気分に浸ることが出来るマンガなのだ。
 1巻終盤になって、本格的に物語が動き出しそうなところ、いよいよ一歩踏み出したというか背中を押されてしまったというべきかもしれないけれども、あと戻り出来ない、中原が言うところの虚業の世界なのか、はたまた地獄か天国か、覚悟もままならないまま、ミナレはラジオ業界という電車に飛び込むのだ。
 それでは、彼氏も失い住処も失い職も失ったミナレにこそ相応しい曲、行ってみましょう。Keira Knightley (キーラ・ナイトレイ)「A step you can't take back」!
(2015.5.25)

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