「ねこぢるうどん」

ねこぢる



 ねこぢるは感性の作家です。考えずに思い浮かんだこと、夢に見たこと、目で見たことをそのまんま描いていたら漫画家になっていたような気がします。いや、彼女の場合はなってしまった、という感じでしょう。特に言われることが、キャラクターのかわいさとは裏腹に描かれる残虐性暴力性です。実際に冷酷で卑劣で自分勝手ですが、私は、ねこぢるはあれしか描けなかったんだろうと思います。この話にはこの絵が合うなんて言いますが、結果論に過ぎないし、ねこぢるに限っては、もうそれしか描けない。本人だって、こんなのでいいのか、という感情はあったと思います。だからと言って彼女は努力するわけでもない、この絵・この話を受け入れる読者がいる、という漫画の懐の深さに私は気づかされました。
 途方もない残虐性に、私はしばしば憤ります。それは内容がひどいとか人命を軽んじているとか何やらPTAあたりが言いそうなことではなくて、作られた残虐性が鼻持ちならないのです。感性の発露のままに描かれた作品は別ですが、明らかに作ろうと意識したときの作品の底の浅さ、とりあえず殺しとけといった安易な演出に、ねこぢるが何故支持を集めるのか、ちょっとわかりません。没後ますます人気が出ているようですが、ほとんど個人の自尊心を満たす程度の人気ではないでしょうか。ねこぢるはマイナーな印象が強いメジャー作家になりました。ときどき私には、好きな作家だけど有名になってほしくないというわがままな思い入れをしている作家が何人かいます(小説家も含めて。ねこぢるもそのひとりでしたが、見事に打ち破れてしまい単なる逆恨みに過ぎないような文章になった)。ねこぢるも一部の漫画ファンにとってそういう存在だったような気がします、というのも、亡くなってからあたかも生前からのファンだったような顔をする人にいわれのない激情が湧いてくるからです。では、ねこぢるのどこに惹かれたのか、そういう人はたちまち口を閉ざすか、山野一氏があとがきに書いていることをそのまま言うだけでしょう。
 私がねこぢるに惹かれた理由は、先に述べた感性に惚れてしまったというところでしょうか。つまらない作品も目立ちますが、意味不明のねこ姉弟の行動に意味のない面白さ、いわゆる不条理(ちょっと大袈裟かな)を感じました。不条理という言葉はいささか唐突かもしれませんが、私にとって不条理は馴染みがあって、好きな作家のひとりが安部公房なんです。安部公房の作品・特に短編には全く意味不明のものがあって、だからどうしたんだ、と突っ込んでもおかしくないながら、不思議と、それはもう不思議としか言いようのない感覚に包まれて作品世界の無意味さにはまってしまうのです。その安部公房があるテレビ番組(当然NHK教育で)こんなことを言っています(うろ覚えですが)。
 (最近自分の短編が教科書に掲載されたということに対して「授業で何文字以内で主題を述べよ、というのがあるが、これがばかばかしい。たったそれだけで主題が言えるなら、たったそれだけしか書きませんよ。いちいち何枚何十枚も書くようなことはしない。書きたいことをそのまま書いて、どうして百文字五十文字でまとめられなくちゃならないんだ」
 ねこぢるが書きたかったことは、ごくごくわずかだったと思います。それは意味がないけどなんだかわけのわからない面白さがあるもの、もちろん読者なんて意識しない、自分が面白いと思うものだけです。ですが、読者は意味の無いことになにかと意味を求め、さかしらぶって「ねこぢるとは・・・」なんて語られることに彼女は嫌悪したと思います。亡くなる前の数年間、彼女はほとんど感性らしい感性を見せず、読者の求める「残虐性」(彼女は「残虐」という言葉も意識していなかったと思いますけれど)に従って描きたくないものまで描いたのではないか。「ねこ神さま」のつまらなさはそこに遠因があると思います。それだけに「ぢるぢる旅行記」は貴重な作品です、ねこぢるの正直さは自殺する勇気に匹敵するんですね。インドを旅行して感動する人がいるようですが、本当かな、と疑ってしまいます。
 本当に彼女は正直です。殺したい奴は殺し、どうでもいい奴も殺し、好きなことだけしながら、血塗れになるのを厭わずに生きるのはあれこれ理屈をこねりたくなる私には到底達し得ない境地であると同時に、達したくない思いもあって、結局ねこぢるは何が描きたかったのか、と真剣に考えるには、ひとまず自殺しなきゃならないような気がしますので、私にはわかりません。

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