「苦くなったマーマレード」(「女の子の食卓」5巻より)

集英社 りぼんマスコットコミックス クッキー

志村志保子



 女の子たちの食を通した人生の一ページを切々と描いた連作集も5巻目になってなお、洗練された短編の技巧を失うことなく輝いている。はっきりいって素晴らしい。今では巻末に収められた他の短編も楽しみになっているが、主役はもちろん「女の子の食卓」だ。
 親子の関わり、親戚との関わり、久しぶり会った親友との関わり。彼女たちの話の傍らには、食卓がある。懐かしい味に昔話が盛りあがっていると同時に、あの時と今との関係の変化・なにより自分自身の変化に驚くこともある。身近な食べ物が題材に挙がった時ほど、彼女等への親しみも湧き上がりやすいだろう。
 本編は、大雑把に二つの傾向に分けられる。回想によるモノローグと、今のモノローグ。どちらかによって物語は紡がれる。回想の場合は、終わりに今現在の主役たちが登場して、あの時の味を感慨深げに・あるいは淡々と時の流れを噛み締めるのだが、今のモノローグの場合は、そうした落ち着きどころがどこか足りないときがある。一話15、6ページの短さとはいえ、十分に必要な情報を描きこんでいるものの、いやだからこそ、この後どうなるんだろう、という不安が読後に残るものもあった。5巻の一挿話「苦くなったマーマレード」もその一つである。
 読後の妙な不安には、少なからず期待感・ワクワク感も含まれている。主人公の小学生のハナが、いじめられっ子の須貝さんと偶然仲良くなるお話である。仲の良いところをいじめグループに見られれば、ハナもまたいじめられるかもしれない可能性を示唆しつつ、ラストのハナの恥ずかしさの混じった笑顔が実に気持ちのいいものなのだが、回想モノローグにある安心感というか、とりあえず今は昔よりは成長しているよという感覚がないだけに、その後の二人の関係が気になって仕方がないのだ。
 去年の暮れに中西健二監督の「青い鳥」という映画を観た。原作は重松清である。去年は他に「きみのともだち」も映画化されていて、これはこれでまたいい映画だったんだけど、「青い鳥」は、いじめが原因で自殺未遂事件を起こしたあるクラスに臨時教師として赴任してきた吃音の教師を主人公にした話である。いじめをテーマにした物語はいくつかあるし、個人的にかなり思い入れがあるテーマなので、どうしても客観的になれないんだけど、この映画の場合は、事件後のクラスメイトたちを描いている・現在進行形のいじめの話ではないという点が、生徒たちに客観的な視点を与え、僕たちは自殺未遂した彼に対して、本当は何をしてしまっていたのかが厳しく問われることになる。
 簡単に言えば、他人の気持ちを理解しようとしない自分、である。中心にあるのは常に自分。当然だろう、まして子供となればなおさらである。「苦くなったマーマレード」のハナは、うっかり声を掛けてしまった須貝さんと会話をしつつも、彼女が学校でいじめられている・自分は巻き込まれたくないという恐怖を頭の隅っこに抱えている。物語のはじめこそ、どこか戸惑い気味だった様子が傍目にもわかるように描かれているが、彼女の自宅で食べた出来立ての美味しいマーマレードをきっかけに共通の趣味が発見され、和気藹々、思わず長居してしまったハナは、須貝さんの母からマーマレードをもらって帰ろうとした。ここを誰かに見られたらどうしよう……ハナの自分本位な感情は、彼女の表情を通して、とっくに須貝さんに伝わっていた……
「……安心して 私 学校で話しかけたりなんかしないから」
 ハナが須貝さんになんとなく居心地が悪い印象を抱いている表情には、単純に「汗」の記号が額などに描かれる。一方、須貝さんのセリフには、最初に「…」が入ることが多い。いじめられたことで、他人の感情を探り探り話しかけるようになったのかもしれない。どこか用心深いというか、本当に話していいんだろうか、そんな遠慮さえ見られる。趣味の話で盛り上がれば、もちろんそんな汗も…もなくなる。だが、玄関を出たハナにあの汗が甦ると、須貝さんの言葉も…から始まるようになる。互いの関係が以前となんら変わらぬ関係だったことを悟った瞬間でもあった。須貝さんの目からは俄かに光が失われる。
 事件後の学校では、みんなと仲良くなろう・悩みを気軽に相談できる環境を作ろうというようなスローガンが掲げられ、白け気味の生徒とは対照的に、先生たちのそうした運動が印象付けられる映画「青い鳥」の描写には、そんな聞こえのいい言葉だけが先行するいじめ対策に、吃音の主人公の教師を持ってくる。最初の言葉がなかなか出てこないからこそ、言葉だけでなく、それを発する表情や仕種にも注意を向けるべき・真剣に向き合うべきなのだ。ハナは須貝さんの言葉に、あまりに無頓着だった。そして、この挿話の表紙・学校の昇降口に掲げられた「みんな なかよく」の看板も同様である。
 誰とでも仲良くなんて出来ないし、相談だって気軽に出来ない。須貝さんの母は、娘が学校でどんな目に遭っているのか知っている様子がないけれども、須貝さんにとって学校でいじめられていることは、誰にも話せない事態なのだろう。誰かと仲良くなれば、その子もいじめられてしまう状況を理解しているからこそ、彼女はハナを安心させるために、あのセリフを伝えたのだ。
 だからといって、それでハナが改心するわけではないのが、この挿話の面白さである。ハナは子どもらしくどこまでも自分本位なのだ。自分本位だからこそ、もう一度あの美味しいマーマレードを食べたいと強く思うのだ。そのためには、話は簡単だ。須貝さんと仲良くなればいい。趣味だって合うし、なんの問題もない。
 ハナの表情からは、ばつの悪そうな汗が消えたかわりに、頬が高潮したかのような斜線が顔に入れられる。これからいじめられてしまうかもしれない怖さ? それとも、新しい友達ができたという興奮? いや、本当の読後の不安の正体は、これから美味しいものが食べられるぞ、という単純明快な楽しみなのかもしれない。そしてハナはいつか回想するのだ、あの時のあの味を。
(2009.2.24)

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