「逃げるは恥だが役に立つ」5巻 えへっ

講談社 KC kiss

海野つなみ



 契約結婚(事実婚)という形で同居する男女を、雇用と労働という視点で描き始めた「逃げるは恥だが役に立つ」が巻を重ねるごとに恋愛模様を濃くしていく展開は、おまえらさっさとやることやっちまえよという突っ込みをしながらニヤニヤ読んでいる読者を増やしたに違いない。就職難から定職に就けず、ひょんな発想から家事代行として・仕事としての妻という役割を演じているはずの主人公が、次第に夫という役割の雇用主に惹かれていく。
 対話劇を中心としたロジカルな物語のなかにあって、当初あった社会派的な結婚観は、二人が同居する理由を経済的に結び付けていたわけだが、二人が惹かれあえばあうほど、雇用関係が障壁となってしまうのだから面白い。
 結婚生活という職場で繰り広げられた二人の関係は、傍から見れば極めて乾いた関係に見えてしまい、実際に同僚の一人に契約結婚であることを見抜かれ、また他の同僚にはゲイであることを隠すための偽装結婚と思われ、遠くの親より近くの身内とばかりに親身な叔母からは新婚感が足りないと危惧される。
 こうして始まった新婚感をかもし出すための月二回のスキンシップとして提案されたハグの日は、二人が予想した以上に距離感を縮め、互いが互いを強く意識する結果に至った。
 もちろん、ここには主人公・みくりの策略がある。院で学んだ心理学を糧に、高齢童貞で他人との・特に女性との交流を拒むことを処世の是としてきた平匡の心を少しでも解きほぐしていき、自身の恋愛したいという欲望を満たす。これほどまでに平匡に惹かれてしまうとは本人も想定外だったかもしれないが、妻(家事代行)として就職した以上、解雇されたくはない。
 さて、この作品の展開の基本構造は前述したとおり対話である。
 二人っきりの場所で、互いに顔を見合わせて、ある話題について話し合う。マンガの構図もいろいろとアングルを変え、内面描写を加え、単調な絵にならないような工夫を凝らしているが、ここで注目したいのが言葉である。
 劇作家の平田オリザは対話について、「他人と交わす新たな情報交換や交流のことである」と述べる。「逃げるは恥だが役に立つ」のキャラクターたちの言葉は、内面描写で自身で考え抜いた結論を、対話によって互いに述べ合うことで披露し、相手から提供された新しい情報や考察をすり合わせ、妥協点を見出し、次の関係に移行する。平匡が同僚たちとの交流で得た知見を、みくりが叔母や風見との交流や過去の恋愛から得た知見を、それぞれ材料として雇用関係の維持に努め、みくりに至っては恋愛関係も構築せんと企んでいる。
 4巻で思いがけずキスしたことから、5巻はさらにイチャイチャマンガになるわけだけれども、二人のやり取りが対話であることに変化はない。あくまでも二人は雇用関係にある・同居しているこの場は職場である、ということを前提にしているからだ。
 二人がそれぞれの家族と話す時の言葉遣いが対話との違いを鮮明にしよう。「僕」とみくりに話しかける平匡は「俺」と言い、母にやや突っ慳貪な物言いでしゃべり、短い単語を並べる。気を使う必要がなく相手は自分のことをある程度理解している・そして察してくれるからこそ出来る話し方だ。これが会話である。
 対話と会話の違いについて平田は、この見極めとして冗長率(伝えたい意味や情報に、直接関係のない語句が、どれだけ含まれているかを示す)の高さの差を挙げる。「意外に思われるかもしれないが、「対話」においては冗長率は高く、「会話」においては低いのである。」
 二人の対話は、自分の考えを明確に伝えるために、助詞からなにまで丁寧に慎重に言葉を選んでいる。一方、家族に対しては、そんな気を使う必要がないし、単語を言うだけでも事足りる。時と場合により会話で「おい」とサインを出せば、言われた側がお茶を淹れるなりなんなり言ったりする。対話なら「お茶を淹れて」「お茶をお願い」と単語だけでは明確に伝わらない。劇中では、二人がいまだに丁寧語(ですます調)で話し合いをしている点がわかりやすいだろう。
 だがしかし、二人のそんな関係性を一気に縮める事態が訪れる。みくりの母の怪我である。これにより父の面倒を見るために実家に帰ったみくりは、平匡に会えない寂しさを痛感しつつ、それは平匡にとっても同様ではあるのだが、距離を開けることで、二人の対話が一気に会話へと移行したのだ。メールである。
 二人のメールのやり取りは、丁寧語は変わらないものの、対話よりも短く的確で要点がまとまっている。これまでの対話のように長々と伝えたいことを次々に言葉で発することが出来ない。短い言葉の往復なのだ。書くという行為によって言葉を単語に凝縮して列挙し繋げた結果、二人は会話を成立させたのである。メールだからこそ聞けたことも聞けると、この効果は絶大であった。
 自宅に戻ったみくりの、多くの読者を悶絶させただろう「えへっ」は、最初の唐突なキスとは異なり、互いの気持ちがたった一言で通じ合った瞬間だった。二人が面と向かって交わした、初めての会話だったのかも知れない。
(2015.5.18)

戻る