「野の花」

チクマ秀版社 坂口尚短編集第1巻「午后の風」より

坂口尚



 坂口尚は私が知る限りでもっとも的確に風景を描ける作家だ。昨年の更新日記で彼を「風が描ける作家」と表したが、それはすでに坂口尚研究家・さとぴー氏の指摘するところで、坂口「どちらかというと風景が好きで、人物描きたくない、なんて思ったりします。」という言葉を引用しており、なるほど、今ごろ気付いてどうすんねんと不覚、今回改めて「風景」を鍵に考えてみようと思う。
 題材は坂口尚短編集1巻「午後の風」収載の20頁の小品「野の花」である。物語の筋は、受験を控えた高校生がカチンコチンの町並み・ひいては世の中に嫌気が差し、ちょっと当てのない旅に出て風に吹かれるという抒情詩で、心に響く言葉もあって私にはとても印象深い。ところがこの作品を、セリフ・語りを読むだけで絵は一瞥するままに流して読んでしまうと、主人公の感じた風を味わうことなく読み終えてしまいかねないから危ういのである。だからひとコマひとコマ熟読してほしいのだが、所詮は個人の感性の脆さというか儚さというか身勝手というか、人それぞれでいいだろといった具合に片付けられてしまうからなんとも歯がゆいものであり、劇中で描かれる風景・景色というものになにかしら脚注を設けてみようと思う。それによって、作品に妙な意味付けが出来て心に残るかもしれず、数ヶ月後数年後に不意に作品の一場面を思い出して再読する機会を与えられればこれ幸いだ。
 その前に、風景について簡単に触れておこう。人によって想起される景色は様々だろうが、風景のもっともらしい定義のひとつに「あいまいな境界」が挙げられる(「もっともらしい」というあいまいな表現も味噌ね)。もし山の風景を思い浮かべたならば、山の稜線と空の境目は半ばぼやけていたり雲がかかっていたりするだろうし、相互に干渉して溶け合って山とも空ともつかない何物かに変化しているように見えるかもしれない。田園風景にしても、あぜ道は田を画する以前に田の空気を橋渡しし、農家は点景となって田んぼの一部に見えるだろう。都市景観にしても、車道と歩道を優しく分かつ街路樹があり、雑然とした街中に突如湧いたような小さい公園が喧騒から逃れる避難所になる。また一方で自然の安定を崩さんとするいびつな物体も時として風景を風景たらしめる場合がある。日本庭園は人工的に作られた自然の縮景だが、そこにはおよそ自然らしくない石橋がよく設けられることがあって、この橋がないと落ちつかないくらい風景は微妙であり、かといって風景を作ろうとすればするほどに風景は遠ざかって単なる石や草や水溜りになってしまうのだから、感覚が非常に難しいのだ。といって自然そのままの景色は素っ気無いもので、原生林を前に畏怖はすれども風景は感じにくいだろう、それよりも人は人の手の加わった緑地公園の木々に風景を感じるものである。
 というわけで漫画で風景を描こうとなれば当然作らなければならないのだから、表現の難しさは想像できよう。だが、坂口尚はやってのけた。彼の描線はとても柔らかく、硬質な物体も指先で突つけばゆらゆら揺れるような不安定感がある。主人公・かおりが列車の中で母との旅行を回想する場面、駅の二人の立ち姿・かしいでいるんだけど、これが風にさらされている様子を表現してしまい、特有の筆致が風景として描かれると、母子の後姿はもとからそこにいたような点景として画面にとけ込んでしまう。
 一方で街中の定規で引かれた固い道路や建物には質感を与え、なおかつ都市の景色を象徴させる。ビルの谷間に造られた公園が好例だ。この公園には憩いや安らぎというものがない。一体なんのために造られたのか。本来公共の場として「あいまいな境界」の一端を担うべきものが、ここでは高い柵に覆われ隔離されているのだ。ちょっと休憩しようと訪れたはずの場所に入ってみれば、監獄のような圧迫感でブランコは錆付くだけだろう。路地の傍・塀際に置かれた鉢植えは、そんな窮屈な景色にせめてもの潤いを求めた人々の本能かもしれない。
 作品の主題とは離れているかもしれないが、風景まんがとして「野の花」を読むと、風景について無意識にだろうけど作者が実に理解していたことを垣間見られる。風景を肌で実感していた、というべきか。だから本来ならば言葉を並べて理屈をつけること自体が「自分の好みを哲学に仕立てあげて、その好みに関知しない人達を軽蔑する事」と言われても致し方ない愚考だろうが、ここでは居直って愚を貫こう。
 さて、かおりは知らず知らず人の畑の中に入ってしまい、おじさんに叱られてしまう。これは風景を主人公に体感させてしまう瞬間だ。街中を歩いて知らず知らず他人の敷地内に入っていた、なんてことがあろうか? きっちりと区画された人の心を無視する都市の味気なさは、うるさく自己主張してやまない通りの看板に一因があるが、そもそも風景は「ここは自分の領域だ」と訴えて自ら壁を作るだろうか? ここに「あいまいな境界」の重点があるのだ。
 「VERSION」(潮出版社希望コミックス全三巻・講談社漫画文庫上下巻)で語られた「私たち」をさえぎる城壁・物の名前と言う壁はそのまま、かおりの嫌うアスファルトとコンクリートで区切られた家々建物の壁につながる。だが、風景にそんな境界は存在しない、物と物は自己主張せず互いに譲り合い、それでいてある物を中心にすればしっかりとある物の特徴が周囲の物たちの後押しによって浮かび上がって際立つ。「際」つまり境界が立つのだ。壁を作らずとも境界ははっきりするのだ。見開きの頁は、どれを中心にもってきてもどれもが様々な意を含んで「際」立つ、時刻表を放り投げたかおりに目を向ければ自然と画面下の彼女自身の語り・彼女の気持ちを察することが出来るだろうし、子犬に目を向ければ、一匹さまよってきた孤独が周囲の寂しい景色に象られながらも少女の存在によってやっと支えられている脆さがあろうか。そして「もっともらしい」風景もここにある。地平線まで続く荒野なんて田舎にあるとは思えない。自然そのままを描くとなれば点在する農家や周囲を囲む山々が現れるはずだが、主人公の内心を投影した風景を演出するために、それらをとっぱらった、廃線の線路も途中で霧散させた。実に風景である。
 最後の頁はかおりが街に戻ってきたことを暗示させているのだろう。最後の2コマはガードレールである。車道と歩道を画するそれは、もともとが自動車を守るために設けられており、歩行者への配慮はまるでない。柵で囲われた公園と同様に歩行者を拒絶しようとする車の見えない悪意であり、歩行者にとってそれは白くゆがんだ醜い形状の近寄りたくない壁なのだ。最後のコマは、かおりの思いに応えた風景が風穴を空けためだろうか。
(参考文献:中村良夫「風景学入門」中公新書 1982年)

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