「のりりん」のスピード感

講談社 イブニングKC 1〜4巻

鬼頭莫宏



 ロードには乗ってないが自転車の移動を主とする私にとって、自転車(というかロード)の魅力を存分に語る鬼頭莫宏「のりりん」はとても読み心地のいいマンガである。車好きの主人公・丸子(まりこ)が次第に自転車に傾倒していく姿は、いいぞいいぞとワクワクしてしまうし、ヒロイン格のロード少女である輪(りん)の母が語る、「30過ぎたら 男は自転車」という名言には首肯せずにいられない。さてしかし、そんなに楽しんで読んでいるこの作品にただ一つの不満がないわけでもない。自転車のスピードの描写である。
 自転車に乗ると言っても、実際は自分の足で漕がなければ前進しないのが自転車である。当たり前の話かもしれないが、ではこれをマンガで表現するとしたらどのように描かれるだろうか、想像してみたい。
 まずはペダルを漕ぐ描写だろう。足の動きがキャラクターのパワーの指標になるだろうし、迫力も出る。あるいは風を受ける描写でスピードを出せそうだ。緻密な流線がキャラクターの顔を覆っていることだろうし、顔がゆがんだり髪の毛や衣服がはためくような描写も加えられるだろうか。激しい息遣いやペダルを掴む足先や腿のアップ、ハンドルを強く握り締める腕に力がこもる……
 「のりりん」には、これら素人が考える描写がほとんどない。ペダルを漕ぐ足の動きに乏しく力を込める場面少ない。太マジックで書いたと思しき車のエンジン音の雑さと走行音のぶっきらぼうさに対し、自転車の走行音は実に軽く描かれてもいる。エンジン音と風を切る音の違いでもあろう。
 それはともかく、全編にわたって漕ぐ描写に欠けているので、なんだか自転車を自分の力で前進させているというような感覚を感じないのである。もちろん私の個人的な感想に過ぎないけれども、だからといってこの作品が自転車による運動の描写を無視しているわけではない。
 1巻で、知り合って間もない女性・カラモモさんと自転車で併走する場面がある。自転車嫌いを公言しながらも免取によって自転車に乗らざるを得なくなった丸子は、ひょんなことから知り合った輪とその親子のラーメン屋に義理堅く、自転車で向かうわけだが、ここで丸子は自転車で走るという行為にちょっとしたときめきみたいなものを感じてしまう、個人的に好きな場面だ。
 カラモモを前に走らせ、丸子は後ろからリードしながらゆっくりと走り始める。いくらの自転車を買ったのか・学生時代の部活の話などをしつつ、大通りに出て歩道を走るところから丸子のモノローグが状況の解説を行った。思いのほか神経を遣う自転車の走行が車の運転と大差ないことにやがて気付いていく。そして、歩道より車道を走ったほうが危険が少ないと判断するのである。
 第1話で車道を走る自転車を轢き殺さん勢いで毛嫌いしていた彼が、自転車で車道を走ることの意味と安全性を肌身で感じる重要な場面なわけだが、とにかく話しながらとは言え、それなりの速度が出ているであろう二人の描写には力もスピードもない。風を前から受けているような描写もない。路上駐車の車を避けるために大きく車道にはみ出さざるを得ない時の後方確認と譲り合い。彼の感覚は、まるで車を運転している時と変わらないのである。「遅い車を運転している感じだな」
 そして彼は自転車の走行音の違いに気付くのだ。1巻207頁である。
 「チャカチャカ」と「シャー」。カラモモさんの自転車(クロス)を漕ぐ場面と、丸子が自転車(ロード)を走らせる場面が音の違いで表現されていたのである。チャカチャカと忙しく足を回すカラモモと、足を回すよりも丸子の自転車は走行音の方が大きい。あまり足を回さなくても速度が出る自転車に彼は乗っていたわけだ。
 車の音といい、自転車の音の違いといい、作風もあるけど「のりりん」のスピード感は流線と擬音に拠っていた。流線だけでは車と自転車に違いはない。そこで音の圧力やら太さを擬音の線によって表現していく。3巻でロード対決をする等々力と丸子の走行音は、やはり軽い。風のようだ。一方、後ろから対決を見守る車の擬音は太い。「ブオン」「キッ」といちいちうるさいが、それに比べて自転車……いやもうロードと呼ぼう! ロードの軽快な走行音と速度の爽快さは、身体の音にも近かった。走り始める「ガッ」「ジャッ」という音の感覚が、土を踏む・足でペダルを踏むという感覚に基づいているだろうし(実際にそんな音がするんだろうけど)、ブレーキ音の「キュ」が、そのままブレーキを手で握る動きも想起させる。
 なるほど、人の力で前進する動きを「のりりん」は擬音に込めていた。そう考えると、自転車の走行音は、風を切るというよりも風に乗るといったほうが適しているような気がする。丸子が自転車の気持ちよさを思い出すときの描写は、遠近感のある直線の道路と、道路上の流線だ。車の中からのアングルではありえない空間移動の感覚を彼の主観で描写することで、生身で空を飛んでいるようなスピード感を味わっているのかもしれない。自転車は漕ぐものではなく、乗るものなのだ。
(2012.1.23)

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