「大奥」2巻228頁 抱擁の修辞法

白泉社 ジェッコミックス 「大奥」第2巻

よしながふみ



 2006年公開の映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)のラストシーンにおいて、主人公格の西郷が、米兵の一人が持っていた栗林のコルト銃を目敏く、奪い返せとばかりに朦朧とした身体でシャベルを振り回す。その銃は栗林の銃である、という情報しか彼は持っていないにもかかわらず、彼が米兵に向かっていく姿は鑑賞者の心を捉える。この場面の解説をネット上のどこぞで読んだ時に私は、「大奥」2巻228頁に感動したのは、まさにこれだったのだとわかった。
 よしながふみ「大奥」は、男女逆転大奥というSF的な設定に耳目が集まりがちだけど、2巻の将軍家光(17歳の少女)と還俗を強要されて大奥に入った有功(ありこと)が抱擁するに至るまでの描写がその直前の彼女の回想によって凝縮されていることこそに本領があり、私は戦慄すら覚えた。抱擁そのものは、表層には似た境遇に置かれた若い男女が心惹かれあった結果が漂っているのだが、水面下には性差を超越した二人の人間の物語・劇中のナレーションに言うところの傷付いた雛が互いに身を寄せ合って感情を、泣き声と共に解き放っているのである。ボーイズラブ物を手がけている作者にとって、男女の恋愛だろうが男同士のだろうとか女同士であろうが、それは結果でしかないということが如実に表現されている瞬間でもある。
 207〜220頁の家光の回想は、家光と読者のものでしかない。これまで有功の視点によって語られていた物語が、ここで一転する。付き人として大奥に共に入った玉栄の子猫殺しの件にしても、有功は全て見抜いていたという述懐によって、結局は有功の視点に引き戻される。江戸市中で度々起きていた、女性の長髪が斬られるという辻斬りめいた事件の真相も、有功により家光の差し金であることが明らかにされてしまう。彼に知りようもない出来事は、彼の洞察や想像によって全て回収されているのだ。このレトリックにより、物語は有功によって全て解説され、描かれた出来事も全て有功によって解明されているかのような錯覚が促進される。
 有功は言う、将軍として・男として生きなければならない家光(もとの名は千恵)にとって、幾度も打ちのめされてきただろう、女としての自分を何度踏みにじられてきたことだろうか。それらの出来事を知った時、読者はまさに有功のごとき明晰さでもって家光のこれまでの数々の所業の動機を察する。よしながふみは、フリースタイル「このマンガを読め! 2007」で萩尾望都と対談している。よしながは、萩尾望都の作品が短い頁数のなかで人の一生を描いてしまう構成力に今更ながら驚く心情を吐露しているが、これを受けた萩尾望都の言葉を借りれば、実に贅沢だということになる。「密度の濃さ」があったとも語っているが、要は情報の整理が際立っているからこそ成しえる力である。件の回想場面はまさに、際立ちであり、マンガを読む上で贅沢な瞬間なのだ。
 手毬をする千恵を見て、母は「若紫」と形容する。将来は美しい女性になるでしょうという意味が込められたそれが源氏物語を意識していることは言うまでもないが、私は詳しくないので薀蓄は書けないけれど、ここで子猫の名も若紫と有功に名付けられていたことが想起される。子猫の名を知ってから有功の部屋をしばしば訪れるようになった家光がどのような思いであったかは個々に想像できよう。千恵にとって有功は母のような存在であったのかもしれないし、子猫がかわいがられる姿に己が母に愛される姿を重ねたかも知れず、あるいは子猫を自身の赤子として抱きかかえたことだろう。
 泣き叫ぶ千恵の表情。母から引き剥がされる彼女の顔の向こうには、(次の頁をめくると)春日が立ちはだかり、千恵は泣き伏してしまうばかり。長い髪もばっさりと切り落とされ男装を強制される。行ってはならぬという場所に出掛けて自由を得たと子供心に得意気になったのもつかの間、春日を煙に巻いた先にはむさくるしい男が立ちはだかって彼女を襲う。子を孕み産みたくないと叫ぶも、生まれた赤子はいとおしく、けれども抱えた赤子はすぐに死んでしまう。
 よしながは、ここ(http://www.toranoana.jp/torabook/toradayo/ncomic46.html)でこう語っている、「何もかも奪われてしまった人の最期のプライドさえも奪われていくみたいな話が好きなんです。」と。千恵は、まさしく作者にとっての萌えの対象のごとく次々と失っていく。少女性から姿格好、女として扱われた時に訪れた強姦と、わが子。これら数年間の出来事がわずか14頁で回想される。
 「硫黄島からの手紙」で西郷がよろめきながら戦おうとする姿に鑑賞者は、栗林がアメリカの友人から銃をプレゼントされる回想を重ねて西郷と同化し、その銃の重要性を西郷以上に感じ取っている、これは監督の巧みな詐術とも呼べる、レトリックであるという。実際に有功が知り得た事実は家光の笑いの空疎さにしか過ぎない。過去をあざ笑っているかのような家光の描かれ方(221頁)は、読者に強烈な印象をもたらすが、ここに有功の言葉が入ることで、家光の過去さえ知ったかのような錯覚が起きる。もちろん、彼の語りによって察せられた家光の過去は読者しか知らない出来事だ、少なくともこの時点で具体的な出来事は有功の想像でしかない。だが、全14頁で展開されている家光の回想それ自体を察したかのような錯覚が、228頁目に収斂されているのである。82頁で初登場した将軍家光が、同じ場所で、本来の自分の姿を取り戻す対照も素晴らしい。
 栗林の銃を持った米兵に挑みかからんとするぼろぼろの西郷の姿が、有功と千恵のなんと傷付き果てた姿と自然と重なることか。
(2007.2.13)
戻る