篠房六郎「おやすみシェヘラザード」1巻

寝ても覚めても

小学館 ビッグスピリッツコミックス



 アサイ「木根さんの1人でキネマ」のヒットがきっかけなのだろうか、映画を語るマンガがここ最近目立っているように思える。映画もマンガも好きな私にとって、とても好ましい状況ではあるが、この映画の語り方というものは、マンガの語り方が様々あるのと同様、作品によってその色は異なる。「木根さん」の場合は一つの映画作品をきっかけに数人のキャラクターを巻き込んだ映画の知識や観た観ないによるマウント合戦がメインとも言えるし、連載は終わってしまったが安田剛助「私と彼女のお泊まり映画」の場合は映画の感想を通して主人公二人の友愛が深まっていく様子を丁寧に描き、麻生みこと「アレンとドラン」であれば映画はあくまでも主人公が出会う人々をキャラ付けする小道具の一つとなっている(だからといって映画愛がとても感じられる作品だ)。では篠房六郎の新作「おやすみシェヘラザード」はどうだろうか。
 この作品は、とても奇を衒った設定となっている。主人公のしえが、狂言回しとも言える麻鳥(あさと)に、夜中のベッドの上で映画の感想を語るスタイルが定番となる。あまりにもしえの説明が下手くそであるために、説明を聞いた人が悉く寝落ちしてしまうという設定により、最後まで説明を聞くことができないという展開が用意される。麻鳥は、しえの妖艶で端麗な容姿に惹かれ、何やら素敵なイベントが起きるんじゃないかという期待を胸に、エアコンが壊れたのを契機に毎夜を彼女の元に通うことになるのだが、結局、彼女の説明に付き合わされた挙句、寝落ちしてしまう、というのが一エピソードの大まかな筋となっている。
  さてしかし、単刀直入に言ってしまうと、下手な説明そのものをネタとするあまり、キャラクターのセリフ回しがとても冗長なものに仕上がっており、マンガとして、とてもつまらない出来に仕上がっている。これははっきり言ってこの作品の致命的な欠陥であろう。だが、この欠陥を取り除いてしまえば、ただ単に綺麗なお姉さんが後輩に映画の説明を淡々とするという、奇も特異もあったもんじゃない平々凡々な作品になってしまうわけであり、このつまらなさを取り除くことは、作品の至上命題として、絶対にできないのである。作品の面白さを取るか、それとも作品の設定を取るか、というところが、この作品の連載を続ける上での大きな悩みどころだろうと勝手に想像しているんであるが、大きなお世話と言うものだろう(作者のツイートを確認する限り、1巻は売れているようだ、前作みたいにならないで良かったね)。もともと篠房六郎という作家の個性・とにかく描き込む・とにかく情報量を増やして言葉を垂れ流す、を考えれば、この説明下手というのはネタではなくほとんど天然ではないかと思わせるくらいに、この作品に限らず冗長で説明的なセリフがよく見られる過去作品を振り返れば、このシェヘラザードは、むしろ自分自身の下手くそな作品設定の説明を逆手に取った、作者渾身の自虐ネタとは言いすぎだが、そう言い換えてもいいくらいに、演出そのものも間延びさせ、だらだらと説明を重ねる。その下手くそっぷりは、例えば麻鳥に友達はいますかという質問に応ずるしえが、一人二人と数えはじめ、結局見開きで33まで数えるシーンの無意味さが挙げられる。そのまんま作品としてのストーリーの厚みのなさにつながっており、結局のところ、しえの説明下手が劇中のネタとして、無意味な演出に意味を与えんと、この見開きに表現されているとも言えよう(個人的には全然面白くないんだけれども、説明セリフが多い反面、こうした演出で説明しようとしても冗長になってしまうのが、如何ともしがたい)。
 フリー素材の「いらすとや」のイラストを映画のワンシーンの説明に使う(版権が面倒なんだろうね。でも「まんが道」は映画のワンシーンをモノクロでよく紹介してたよなぁ)など、新しさも目につくものの、当然そんなことは長続きするわけでもなく、1巻の終盤には早くも定番の大筋展開に変化球を加え、説明の上手いキャラクターを登場させたり、物語の最初に仕込んでおいた他のキャラクターとの確執を匂わせる展開を2巻の引きとしてぶっこんでくるなど、いずれこの定番の設定は様々なパターンのうちの一つになってしまうだろうが、この下手くそな説明というものが作品のキャラクターやストーリーの進め方の下手くそっぷりと連動してこその作品の鍵である下手くそが、ネタにならず本当にただ下手だなと思われてしまい連載そのものが長続きしないではないかと危惧しているが、まあ、杞憂に終わるだろう。というのも、ネタとなる映画の選択さえ適格であれば、それだけで十二分に映画を語るマンガとして面白いからである。それはもうすでに「木根さん」をはじめとした作品群が証明しており、作風がコテコテで冗長でつまらないものであっても、採り上げる映画に語りうる面白さがあれば、そのエピソードを十分に面白いものとなるだろう。
 1巻でその典型的な例と言えるのが「第9地区」のエピソードである。この挿話の冒頭で、しえはエビフライを食べて涙ぐむという場面が描かれる。当然、映画を観ていない者にとっては、彼女がなぜ泣くのかというのは分からない。だが、映画を観た者にとっては、エビというキーワードだけで、もう十分に面白く、まして涙ぐむなんてところまで見せてしまえば、はいはい分かりましたよと、何をネタとして描こうとしているのかも、この時点で薄々気づく読者がいても不思議ではない。ていうか気付く。説明下手なために映画を観ていない者にとっては、狂言回しの麻鳥と同様に、何を言っているのか全く意味が分からない話であり、映画を観た者にとっては、あまりに下手くそな説明がギャグとして機能しているのだけれども(そのうち苛立ってくるレベルでもある)、やはり映画を語るマンガとしては未鑑賞者にも、その面白さを理解されるべきではないだろうか。そういう点で、下手くそな作風は、その下手くそな説明と相まって、その下手くそぶりが読者に対して説明が通じないという事態に至り、その映画そのものがつまらないと感じてしまっても不思議ではない。説明が下手なのではなく、作品の展開が下手だと言っても過言ではない、いや過言でした、ごめんなさい、篠房先生。
 そうした誤解を生むのも当然ギャグとして機能し得ることは百も承知だ。「アウトレイジ」のしえの説明のダンカンネタが最もわかりやすい例である。ダンカンこのやろうというたけしのモノマネ芸人がするネタを説明の合間に挟むことにより、「バカヤロウ」「コノヤロウ」の大合唱映画でもある「アウトレイジ」に、ダンカンというキャラクターが登場すると勘違いさせてしまう。名作「ソナチネ」を「コマネチ」と言い間違えたり、ダンカン主演の「みんな〜やってるか!」のラストを唐突にネタバレ全開で説明したり(なんでここだけ理路整然と説明してんだよ!!)、本作で最も笑いを誘われた場面である、と言うかゲラゲラ笑ったダンカン相関図のように、説明下手によってあり得ない誤解をさせるという展開をお約束としてしまうほうが面白いし、今後大いに作品を面白いと誤解させる演出になるのではないだろうかと、余計なお世話を考えてしまうのである。
 というわけで、カンヌ映画祭に「万引き家族」とともに出品、すっかり陰に隠れてしまったけれども、個人的にめちゃくちゃ楽しみにしている濱口竜介監督の映画「寝ても覚めても」は、2018年9月1日より公開! みんな、映画、観よーぜ!!

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