「ピエタ」

集英社ヤングユーコミックス

榛野なな恵



 時々、表紙と題名に惹かれて衝動買いすることがあります。榛野なな恵の名は、聞いたことがあっても作品を読んだことがなく、私にとって未知でした。ですから「ピエタT」は買ったものの、すぐに読みたいという欲求を湧き起こすことなく、すぐに未読の本の山に埋もれてしまいました。間もなく出版された「U」も、ついでに買っておくかというおまけ程度の気持ちで買っただけでした。しかもこれで完結だというのですから、直観的に失敗したかな・・・という悲観が高じて読まずに埋もれる運命を予感しました。しかし、その後各漫画サイトで好評らしい手応えを感じた私は、それほどのものかというやや構えた姿勢で山の中から本を探し出して読みはじめたわけです。
 なんだか人形みたいな人物の造形でありながら、しっかりと血肉のついた主人公たちの設定に、いい衝動買いをしたという感触を得て、直観が外れたことに安堵しました。冒頭、悪夢から目が覚めて自傷行為に及び助けを求めてうずくまる理央の描写に、人間の暗い心理の話が好きな私は先の展開に大きな期待感を抱きまして、あっという間に読んでしまいました。読後はやや物足りなさを感じたけれども、作品の主題については随分と考えました。
「ピエタ」は例の「ビエタ」ですね、イタリア語で「慈悲心」「敬虔な心」という意味があるそうですが、この物語ではミケランジェロの彫刻に代表される「嘆きの聖母像」を思い浮かべてよいでしょう。冒頭の佐保子は理央と対面の場面で倒れた理央を抱きかかえる未来を予感していますから。でも、これは巧いなー、後に「世界の終わりにはきっと雨が降っている」という理央のセリフも含めて「T」のラストシーンに繋がっているんですから、なんだかこれだけでえらく感動してしまいました。しかも、その場面は「ピエタ」であって「ピエタ」でない。「U」でカウンセラーの御法が語る進化の話がそれを容易に示唆してくれています。つまり、共生ですね。二人の関係は母と子そのもので、そこだけがマリアとキリストの関係と共通しているものの、佐保子は決して嘆かないし理央も復活しない。キリストは死んで復活するけど、二人の場合は全然違う、むしろ一緒に生まれ変わる。それは「ドラゴンヘッド」の長い感想文を書くとき参考に読んだ「人間以上」で語られている新しい人類という世界に近いものだったので、偶然に驚きました、まさかこの作品で「人間以上」を読んだのが役立つとは。
 運命を感じていながら、ひどく抽象的で掴みどころなくたどたどしかった二人の関係が、「ピエタ」の後に確信を持って親密になり、二人で一人の生物=新人類として目覚める。「人間以上」は、5人の超能力者が集団生活を経る過程で新しい人間・「集団人」に成長していく模様が描かれています。ひとりひとり孤立していては役に立たない・あるいは役に立てる術を知らない5人が出会って共同生活をし、初めて「ひとり(集団人)」になる。理央はひとりでいることに恐怖しながら、常に誰かを求めていました。その一方で他人と協調することが出来ず、結局ひとりになってしまう。そんな繰り返しを現在と過去しかない自分、未来のない自分と捉えている、絶妙なたとえです、「その現在も過去にどんどん侵食されている」。
 未来を考えることが出来ないほどの悲劇はない。悲観も楽観もありゃしない。しかし、それはひとりの人間にとっての問題だったわけです、集団人にとって、個人の問題は消え去る、存在しないと等しくなる。当然、個人個人の間では通用する道徳や倫理もなくなる。彼女たち・・・いや、「彼女」にとっての問題は「彼女」の中の問題となって個人とも無関係になる。新しい社会が生まれたのです。
 ですが、この新社会は時に、個人にとって脅威となります。なにせ理解できない世界ほど怖いものはない。理央の義母はその代表格として殺意あらわに個人主義を貫こうとする。読者は個人と「彼女」の両方の世界を見渡すことが出来ますが、もし私たちがこの物語の住人だとしたら、理央の義母に親しみを感じ、「彼女」を気味悪がることでしょう(下手な読み方をすれば、「彼女」を同性愛と勘違いしてしまうからです)。そして私たちは永久に「彼女」の社会に触れることはできないし、俗(個人)な考えは通用しない、たとえば、理央か佐保子のどちらかに好きな異性ができたら? という問い掛けも「彼女」には意味がない。何故なら「道徳とは、きみたちを人間の中に住まわせるため、人間が規定した規則に従うことなんだ。きみは道徳を必要としない。どんな道徳もきみに適用できない。(中略)普通人の道徳は、蟻塚の道徳がぼくに役立たないと同じように、きみには役に立たないのだ。」
 新しい生活をはじめた「彼女」の行く末は旧人類の私には到底想像できませんが、御法夫妻が「彼女」を理解し受け入れて協力したと同じ心を持つことができるならば、きっと私たちも「彼女」の社会の一員となり、新しい社会に品性を持って臨むことが可能となるでしょう。
 (参考文献 シオドア・スタージョン「人間以上」矢野徹訳 ハヤカワ文庫 1978年)

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