鍋倉夫「リボーンの棋士」7巻

最高の棋譜

小学館 ビッグコミックス



 奨励会三段リーグを勝ち抜けず将棋への情熱を失い淡々と毎日を消化していた主人公・安住は、空しい時間を過ごすバイト生活も気付けば三年以上経ち、三十歳を目前に再び将棋への情熱が目覚めようとしていた。
  最近では、現在のプロ棋士編入試験の礎を築いた瀬川六段の半生を描いた映画「泣き虫しょったんの奇跡」、あるいはマンガでもプロ編入を目指す女性棋士を描く原作:左藤真通、漫画:市丸いろは「将棋指す獣」(全四巻)など、あるいは今年見事プロ編入試験に合格した折田四段の活躍のように、リアルにリボーンの棋士を感じる機会が多い。
 鍋倉夫「リボーンの棋士」は、「リボンの騎士」にひっかけつつ、再起・復活というタイトルの意味がさまざまなエピソードによって磨かれ、あるいは思われ語られ、主人公だけでなくすべてのキャラクターにとって新しい門出を踏み出す契機となる、希望に溢れた結末を迎えた将棋漫画である。
 7巻にて完結となった本作の最終巻の表紙、安住のなんという清々しい表情であるか。真っ白なTシャツにジーンズで将棋盤を前に正座し、読者に正面を向けた姿勢は、これから対局を始める一場面を切り取ったようにも見えるが、掛け軸や壺が構える和室の対局室の佇まい、安住の左側に置かれた脇息の厳かさとは正反対の、なんとも軽装な様は、これまで安住が背負っていた重圧から解放された爽やかさを感じる。前巻で藤井聡太二冠をモデルにした五十嵐律に惨敗した安住は、しばらく将棋に対する熱意を失い、ぼうっとした日々を過ごすようになっていた。実力は劣っても、将棋への愛情はだれにも負けないという自負が、五十嵐との語らいによって、もろくも崩れ去ったのである。
 けれども、かつてのバイト先の同僚・森との対話により、安住もまた、森から見れば五十嵐と変わらない天才……とまでは行かずとも他人から見れば特別な一人であることに気付かされる。森もまた、安住との出会いによってリボーンしたキャラクターだった。
 では、五十嵐と自分を比べて足りないものは何か。
 安住と同じく奨励会三段リーグを突破できず鬱屈した日々を将棋道場でアマチュア相手に圧勝し、そんなことで晴れやしないと知りつつも憤懣を晴らそうとしていた土屋というキャラクターがいる。土屋も安住と同じく導かれるようにプロ編入試験を目指すべくアマ棋戦を戦っていた。一時は安住を一歩先んじるが、やはりプロ棋士の実力は分厚く、土屋も伸び悩んでいた。
 土屋にとっては望月にまったく相手にされなかったことがきっかけだろう。奨励会時代の同期も、方やタイトル保持者、方やアマ棋戦の優勝者とはいえ、実力の差は天地ほどあった。早指しで完敗した土屋は、それでも強くなるために望月の研究会に参加し、プロを目指すのである。
 安住の覚悟、それはおそらく、「勝つ覚悟」。楽しいとか将棋が好きとか、そういう段階の話ではない。将棋で生きていく覚悟なのだろう。父親の還暦祝いで集まった実家で、いつまでも将棋に未練があるように見える父親にとって、息子の姿は面白くない。けれども、安住は父親の何気ない一言に光を見出したのである。少年時代、父親に将棋の強さを誉められた時のように、あの頃と何も変わっていない、強くなることへの欲求が、ふつふつと湧き上がってきたに違いない。
 もともとこの作品には藤井聡太二冠のようなポジションのキャラクターがいた。明星である。中学生棋士として注目を集めながら、物語序盤の将棋まつりの十面指しの一人で安住と対局していたのだが、明星はすっかり忘れていた。報道陣に囲まれる五十嵐にかつての自分を見ながら、いつか倒すと意気込んでいたが、五十嵐が目の前の一局に集中していると語るのとは逆に、目の前の敵に対する敬意を失っていた明星は、あっけなく安住に敗れ去るのだ。
 結果的に、物語は五十嵐律という最強のキャラクターを主人公の前に登場させた。前人未到の三十連勝を賭けた対局に、アマ棋戦を勝ち抜いた安住を迎えるのである。
 結論から言おう。この対局には最高の棋譜が用意されていた。将棋監修を務める鈴木肇氏は、元奨励会で現在は将棋講師という肩書で将棋の面白さを日々伝える仕事に励んでいるが、よくぞこの最高の棋譜を最後の対局として採り上げたものだ。素晴らしい。
 将棋漫画にはたいていプロ棋士か鈴木氏のような元奨励会の監修、助言や棋譜の提供など作者に協力する方々がいる。本作「リボーンの棋士」にも、おそらくモデルとなった実践譜が数多く存在するだろう。
 たとえばリボーンの棋士の一人・今泉五段がアマ時代に升田幸三賞を得た「2手目△3二飛」戦法を発展継承したと思われる振り飛車の序盤の工夫として、2018年王座戦決勝トーナメントで菅井竜也王位(当時)が行方八段(当時)に見せた4手目△3二飛戦法に極めて近い棋譜が2巻第10話11話で描かれ、安住が日々進化する将棋に驚く場面がある。
 では、最後の対局の棋譜は何をモデルにしたか。作者の鍋倉夫氏は大いに納得したに違いない、藤井聡太二冠と佐々木勇気七段の実践譜なのである。
 佐々木勇気と言えば藤井聡太の連勝記録を止めた棋士であるが、本局は、さかのぼること四年前の2016年5月1日、藤井聡太が奨励会の三段時代に、佐々木勇気五段(当時)と岡崎将棋まつりで対局した棋譜なのだ。多くの観客が、最年少プロ棋士誕生なるかと当時すでに注目されていた藤井三段と若手超有望株の佐々木五段の対局を見に会場に駆け付けた。まさに本編と同じく多くの人々に注目された中で指されたのである。
 といっても、公式戦ではない。一手二十秒の早指し戦でもあるし、文字通りのお祭りだ。さてしかし、本局は非公式戦にもかかわらず雑誌「将棋世界」で特集を組まれるほどの激戦となったのである。「リボーンの棋士」の最終局が盛り上がるのは、必然なのだ。
 本作では、藤井の手番を安住が指し、佐々木の手番を五十嵐が持つことになる。終盤になって詰めろ逃れの詰めろが三度も飛び出す大攻防戦となったように、本作も負けじと物語を盛り上げる仕掛けを施していく。これまでのキャラクターが注目の対局に駆けつけるのはもちろん、五十嵐の強さをこれでもかと語る。それってつまり佐々木プロの強さを語ることになるのだが、それはそれとして、お互い秒読みの中(実践譜も秒読みの中で戦われた。解説に立ち会った谷川九段も「こんないい将棋を指されたら、あとから指す人間がつらい」と苦笑いしたという)、奇跡的な手が連発する。「将棋世界」でも「奇跡の応酬」と語られるほどなのだから凄まじい一局を選んだものである、鈴木肇先生!
 だが、私がうなった演出はカメラの音である。マナーとして対局中の撮影は許されないが、「カシャ」という軽い音が、これまで張り詰めていた緊張感・読んでいる私をしてどっちが勝つんだという高揚感に燃えていた(この棋譜が藤井佐々木戦だと知ったのは読後のことである)意識を、すっと落ち着かせたのである。あ、作者すごい、ここにきてもめちゃくちゃ冷静な一手を指した、観客席の中に父親を認め、続けて土屋を認める。安住をうらやみ安住を追い越そうと躍起になっていた土屋も、時を経て成長し師匠に挨拶ができるほど将棋への愛情が恢復し、宿敵であろう相手の安住にも、気を配るほどの余裕……いや、この表情はそんな生ぬるいもんじゃないだろう。かつては負けて悔し泣きしていた土屋が、負けても冷静に対局を振り返り次局への糧とする。土屋の表情が眼鏡に隠れたまま物語が終わるのもまた、彼の強さの成長の証なのだろう。
 五十嵐さえも対局中に成長させてしまう戦い、これ以上出来過ぎなな主人公はいないだろう。対局後の土屋との対話が、実に余裕があって清々しい、敗者にもかかわらず風格さえ感じる。実際、佐々木の5九飛成が激戦を制する決め手になったと、「将棋世界」でも解説されているわけだが、そこからの変化を楽しく語り合う二人。今後ろから、「安住」と呼びかけても、7巻の表紙のような笑顔で振り返ってくれるだろうし、ちょっと前なら俺は無視かよと拗ねた土屋も、ふっと息を吐くような笑いで安住と一緒に寛大に振り返ってその笑顔を向けてくれるだろう。
 再起を果たし、さらなる出発点に立ったキャラクターたちの中にあって、では一番復活したと言えるのは誰なのか。
 アフタヌーン四季大賞で華々しいデビューを飾るも連載作をつかめず、長いアシスタント生活で花沢健吾先生を通して知り合ったスピリッツの編集者とともに、長年温めていた将棋漫画の構想を鈴木肇先生を迎えて形にし、連載そして単行本化という物語を練り上げ、見事に本作を完結させた、作者である、鍋倉夫先生ご自身に違いない!

(2020.9.6)
◇参考資料
・「将棋世界」2016年7月号 日本将棋連盟出版部
・2018年菅井八段対行方九段戦の解説と4手目△3二飛戦法について→https://thirdfilerook.jp/sugai-rook-32-strategy-vs-namekata/
・2016年岡崎将棋まつりの藤井佐々木戦の「詰めろ逃れの詰めろ」についての解説
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