「リバーズ・エッジ」

宝島社 1994年

岡崎京子



 荒い作画、汚い描線、崩れた背景、岡崎京子は漫画における絵の意味を暴いてしまった漫画家である。漫画はいかに写実的に描くかではなく、いかにその本質を描くかということをあっけらかんと語ってしまった怖いもの知らずである。それだけに作品の詳細な分析には臆してしまう。なにせ本人の態度は真面目に適当なのだから、登場人物たちに切実なことを語らせたとしても、すぐにそれを否定するセリフや描写を挟んで、自分自身常に暴走しないようしたたかに計算し、漫画を描く行為自体さえ俯瞰して没入しないよう慎重に書き殴っているからである。だからそこを承知して読まなければならない。さもないとたちまち評論家を気取って「「PINK」におけるワニにはこんな意味がある」「「ハッピィ・ハウス」から読み取れる家族の問題とは…」といったところを起点に哲学だの心理学だのを持ち出してしまえば、もう岡崎京子の失笑を覚悟する必要があろう。同時に「リバーズ・エッジ」の中の「死体」について語ることも非常にばかばかしいことこの上なく、吉川こずえ曰く「バッカみたい」と一蹴されてしまうのだ。もちろん、私たちには作者の思惑に振り回されず作品について好き勝手論じる自由があるわけで、作者に笑われようが構わず作品世界の内容について論理を積み上げることは出来ようし実際出来るのであって、しかしながら私が長らく岡崎京子の作品について語ろうと思いつつ書けなかった事情がそのへんにあり、これが厄介なのである。すなわち、私自身が岡崎京子の絵に引きずられていろいろと読むようになった経緯を踏まえてかんがみるに、作品の内容については深い考察がまったくないのである。直截いってしまえば、単なる消費物でしかないのだ。
 岡崎作品をほとんど読みながらも読み返す作品がほんのわずかだという理由がそれらしい。私の中ではとっくに巨大な存在になっていた「岡崎京子」が単なる虚像に過ぎなかったことを自覚して初めて彼女の作品を語る勇気を得た、なーんだ、案外大したことね―よな、岡崎って、というわけで今回を迎えた次第だが、「リバーズ・エッジ」は何度も読み返している。だからといって格別な思い入れがある訳ではないので困った。この実感のなさ、手応えのなさ、扱われた題材の暗さに関わらずやってくる愉快な読後感は、はからずも死体を見て勇気が出るという山田に等しいのだから自嘲してしまう。やはり作者の罠にとりつかれているのかもしれんと考えると居直る気分になってしまいそうだ、虚無感に蝕まれる感触の気持ち悪さ、なんの現実感もない日常の繰り返しに死生観が転倒する危うさ、すべてが用意された虚構であることはわかっているにも関わらず、作者の気合に飲まれて劇中の登場人物それぞれに自己を投影した果てに読者ひとりひとりに降りかかる空気に殴られたような衝撃・いわゆる掴みどころのなさにみんな食われてしまった。そういう感想や評論とは名ばかりの国語の授業めいた分析(私が今までここでやっていたこと)から時代性とか文化とか道徳とか、なにやらの概念を持ち出して声高に訴えられる作品の主題の真実並びに諸々の岡崎作品についての言説すべてをカンブクロに詰め込んで蹴っ飛ばしてやりたい衝動というものが「リバーズ・エッジ」の書評検索で胸に湧き上がってきやがったのだ。つまり私もすっかり罠にはめられたのであろう、なぜだ? 作者の仕掛けた嘲笑を注意深く探ってひとつひとつ壊していったのに……作品を読む行為自体がすでに作者の罠だったのだろうか……いや、それはちがう、この作品には、もっと敷衍して岡崎作品には、肝心な点が欠けているのだ。「分かったぁぁ〜〜」(「万事快調 ROOM:bR」より)の如く、はっきり何とはいえないが、あえて言葉にすれば、岡崎京子は物語を描いていないのではないか? と恐る恐る書いてみた。なんちて。
 「リバーズ・エッジ」には話の筋らしきものはあるが、ことごとく上っ面をなぞるだけの虚構性が強すぎる。作者本人は普通の日常をさらりと描いているつもりでも、そもそも主人公がタバコ吸って酒飲んでいる時点で私には現実的ではないし、当然日常でもなく、もう全然次元が違うどっか他の世界の物語で、私の知る物理法則も倫理も通じない、作者とその世界に共感した一部の人だけが満喫できる幸福があって、みながみな気分に浸るだけではないのか? 要の物語(それをどう定義するかという問題をあえてを棚上げして)は、その主題だけ・設定だけを単刀直入に描き、物語性の本質は絵と同様に素っ裸にされて、死体のように藪の中に捨て去られたような、悪く言えば無責任な創作態度があるんじゃないかと邪推してしまった。つまり、死体だけを岡崎作品の世界に放り込んで、あとは好き勝手やってくれというような感じなのである。その客観性ときたらそりゃ常人技ではないけれど、自分の作品でありながら徹底的に突き放した姿勢が、あまりに冷酷なのだ。死体の話なんだけど、別に死について語っているわけでもなければ何かの象徴でもない。とことん感情がない。それでいて筆致は冒頭に書いた通り「慎重に」書き殴られているのだから、「ハハキトク スグカエレ」といった昔の電報みたいに、そっけなさに覆われた戦慄が両の手にじわじわと迫り、福本伸行作品よろしく「ざわざわ」と空間が色めき立ってしまう。それはすべて私自身が勝手に妄想した感情なのだが、登場人物を筆頭に作者にさえ感情が感じられない作品だから、余計に想像力が暴走してしまう。だが、終わる予感のまるでないのっぺりとした人生・劇中で言うところの「平坦な戦場」・作者自ら語るところの「退屈な日常」を無表情に描かれた作品に唯一光明がさす瞬間が最後に用意されていて、拡散し迷走した感情がひとつに収束してくれるのだった、223頁から232頁、わずか10頁に救われた。これがなければ何度も読まなかっただろう。なにより決定的な描写が230頁のハルナの涙だ。(言わずもがなのことだがちなみに記すと、12―13頁の見開きが224―225頁の見開きでそのまんま使われているね、コピーしたわけだ。で、後の見開きは二人が歩いている部分に上から紙貼ってちょっと違う二人を描いている、まあ、一目瞭然のことだが、岡崎京子もこう言う作画方法使うんだなっと思って。他にもセリフ入れ替えただけのコピーしたコマがあるけど、手抜きというわけではないな。)この涙について、これから野暮なことを書くと前もって言っておくけど、よかったよ、これ。これまでなんの実感も得られなかったハルナがはじめて言われたんだよな、山田に「(その存在自体が)好きだよ」って。これこそが生の実感なのだ、死体を見ても観音崎とセックスしてもなーんにもなく、虚しかった彼女が、山田の一言で、ほっとする。つまり、苦しさこそが生きる実態なのだ。何も感じなかったのは、単に意地張って何も感じないように生きていた、それがカッコイイことだとでも勘違いしていきがるクソガキみたいにハルナも日常のつまらなさに辟易していただけだった。もちろんこれには伏線があって、135頁の山田の語りが重点になってくるわけで。
 さてしかし、作者さえ予想しなかっただろう「リバーズ・エッジ」の遠大な罠に私もすっかりとっ捕まってしまったが、田島カンナが水族館の魚を見て感激している姿とこの作品読んで感激している読者は、実は同じようなすっとこどっこいではないかと勘繰ってみたりすると、あーだこーだ叫びながら結局私は現実(虚飾)に翻弄されドブ川に捨てられた小ぐまのぬいぐるみではないかと卑屈になった。この終わりは次の始まりでもある、だなんて白々しいことを言ったところで作者に平手打ちくらい、「あんたには、はじまりさえ訪れやしないんだよ」と呟かれるのではないかと冷や汗冷や汗、岡崎京子の復活を切望しつつ正直おっとろしく平凡な日々である。

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