芦原妃名子「セクシー田中さん」5巻

わたしたちへ

小学館 フラワーコミックスα



 一昔前であれば、齢40の世間的にはお局様あるいは嫁(い)き遅れとも影に日向に謗られたであろう経理の田中さんが趣味としているベリーダンスの秘密を知った、若い同僚の朱里(あかり)を中心に描かれる、私たちの居場所の物語が、芦原妃名子「セクシー田中さん」である。これまでも田中さんの卑屈さにハラハラしたり、笙野の変化に調子に乗んなよと釘を刺した気分になったり、朱里の恋の行方にニヤニヤしたり、それでいて、朱里の言葉を通して語られる女性の生きづらさのようなものに、はっとさせられたり。でもやっぱり、田中さんの恋の行方も気になってしまう、いろんな楽しみが詰まった物語が展開されていたが、5巻に至り、いよいよ本作で描きたかった(と私が勝手に思い込んでいる)核心に近いだろう挿話があった。
 映画「マダム・イン・ニューヨーク」を引用しつつ語られた田中さんの言葉「欲しいのは尊重されること」は、仕事に追われて茫漠と生きている自分に、まざまざと刺さってしまったのである。改めて映画を見返してみると、それはさして劇的に語られる主人公の決め台詞ではなく、何気ない会話の中に、ふっと射し込まれた至言であった。あぁ、これなんだ、田中さんが欲しかったものは……と得心してしまった。田中さんの三好への仄かな想いであったり、朱里と進悟と小西の微妙な三角関係であったり、何かと恋愛展開に発展しそうな物語の空気に身構えていた自分が、田中さんが映画から見つけた言葉によって、そんなのどうでいいじゃんか、と開き直って読めるようになると、一巻からまた読み直していた。
 読み直すことで、この言葉につながっていく道筋が最初から引かれていたかのような錯覚があった。いや、実際構想にあったのだろう。実にクソ野郎として登場する笙野であったり、空しく日々をやり過ごす諦めきったかのような朱里の妥協であったり、ちょっとイライラして読んでいた初読の印象が消えていた。この人たちも不器用なんだな、と。だからといって笙野のクソ発言が許されるわけではないが、田中さんの感情が自分に向かっていく、向かっていくことを止められない自責のような周囲との隔絶感とは真逆で、彼は、外に向かっていく、向かっていくことを止められないことで衝突を繰り返し周囲から孤立していく。
 その様子は、ダラブッカという鼓のような打楽器に魅せられていく笙野の演奏によって氷解していく。
 田中さんが秘密にしていた趣味が会社の同僚たちにばれてしまい、「あの時」・学生時代から続く自分への蔑視を思い出し、閉ざしていた「腹痛」がぶり返すと、ベリーダンスのショーで踊る予定だった田中さんがうずくまってしまう。そこに、場つなぎとして笙野が颯爽と登場するのだ。
 けれども、単調なリズムしか叩けない笙野は、ただ出来ることだけ・音を叩き続ける。客たちも最初は何事と驚くも、ワンパターンな演奏に飽きてくる。冷やかしに来た田中さんの同僚も含めて会場がざわつき始めて、ただならぬ状況にどうなるのか・時間稼ぎにも限界がくると、ベテラン奏者の三好が本当に今度こそ颯爽と登場して、場をつないでしまう。
 三好の演奏によって舞台は大いに盛り上がる。笙野の覚えたてのたどたどしい演奏は、三好のフォローによって事なきを得るわけだが、これって、つまりあれなのだ。「マダム・イン・ニューヨーク」なのだ。
 この映画は、インドの上流家庭の専業主婦で主人公・シャシが、流暢に英語を話す夫や子どもたちに肩身の狭い思いをしていた。自分はヒンドゥー語しか話せないからだ。娘の通う学校の先生も英語を日常語としており、子どもにバカにされてしまうこともしばしば。そんなある日、アメリカで暮らす親戚の結婚式の手伝いのために、家族より一足先にニューヨークに行くことになってしまったシャシは、一念発起して英語を学ぼうと、英語学校の門を叩くのであった――
 映画には、アメリカで暮らしてるものの英語をうまく話せない異邦人たちが登場する。おそらくシャシのようにバカにされてきた経験を味わっているだろう同じ仲間に出会い交流することで、シャシは自信をつけていく。少しずつ上達していく英語に、鑑賞している自分もワクワクしていくのだ。いつかこの英語でバカにする家族をあっといわすのだ……という単純な話ではない。
 結婚式当日、シャシはスピーチを求められた。もちろん英語でだ。何を話すかも用意してはおらず、すかさず夫が代わりに話そうと立ち上がるのを制して、シャシはすっくと立ち上がり、たどたどしくも、しかし真の通ったスピーチを披露するのである。「自分を助ける最良の人は自分」と「田中さん」で引用された言葉も、この時のものだ。そして、スピーチはとてもゆっくりと、こう続く
「家族は けっして 傷つけない。家族は 引け目を 感じさせない。家族だけよ あなたの弱みを笑わないのは。家族だけは 与えてくれるわ。愛と敬意を。」
 田中さんの両親の娘への愛情そのものではないか。どんなに自分を責めて周囲と壁を作っても、両親だけは、両親の前ではたちまち子どもになってしまう田中さんの姿に、外でつらい目にあっても、かろうじて居場所を得られた田中さんの人生も想起されよう。
 笙野の度胸ある演奏により、田中さんは同僚の前で踊れはしなかったが窮地を脱した。「相手の音をよく聞いて会話するように」といいこと言って踏ん張った笙野よ、だからといってテメェのクソ発言を無かったことにはできないぞ、と思いつつ、意外と田中さんと笙野っていいのかもとも思い始めてしまう
 二人のデートは最初から波乱含みに始まるわけだが、たとえ恋愛が物語の中心になったとしても、作品の主題から「尊重されること」が失われるわけではない。田中さんは田中さんとして、よくある名字だからこそ、多くの田中さん・つまり多くの人々に届いてほしい物語である「セクシー田中さん」には、今、この曲を送りたい! 聞いてください、カネコアヤノ「わたしたちへ」!
(2022.6.13)
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