「最終兵器彼女」

小学館 ビッグコミックス 全七巻

高橋しん


 BSマンガ夜話で「最終兵器彼女」が採り上げられたのを受けてこの度再読した。してみると、なるほど普通に読み進められたので驚いた。作者がくどいくらいにあとがきで書いてあるように「恋愛漫画」という先入観を読者自ら担がなきゃならない・読み進める途中で気づかなければならないシュウジとちせの二人の物語だという前提があるからこそだが、それでも私には不愉快な気分が残った。
 第一に構成である。よく練られているし、読者を意識した単行本細部にまでこだわった作品作りにも好感が持てるけれども、肝心の中身が無駄に重なっているのである。登場人物の配され方を見ればわかる。まずシュウジとちせの関係、これが中軸、というか本来はシュウジだけでちせも脇の一人だったと思われる。一巻で駆け落ち出来ればそのまま六巻・七巻という筋はシュウジ視点であり、ちせは世界観の一部になっている・つまりちせの兵器としての振る舞いに懊悩する主人公という構図。これを二人の物語にしたのがふゆみとテツの関係である。この夫婦はまるっきりシュウジとちせを男女逆転した構図に近い。一巻で駆け落ちできず、その後ふゆみが登場する時点でこの作品は長編凡作への道をたどってしまうわけだが、戦場の夫を思いつつシュウジとの情事を図る彼女は、故郷の妻を思いつつちせに近づいてしまうテツに重なっている(どちらも寂しい寂しいと言う)。同じことを考えている登場人物が所狭しと台詞を吐き続けるわけだから、正直しつこい。絵がさっぱりしているだけに脂っこくならないが、構成はほんとにしつこい。さらに物語はアケミとアツシの関係まで持ってくる。この三組の男女は一方が戦場・非日常に身を置き、一方が日常を過ごし、互いが互いを思う様子が十分に描かれるが、何度も同じ描写が繰り返されているだけである。みんなを守るといっていたが、戦闘を繰り返すうちに兵器として成長し結果殺戮を繰り返すちせ・敵を殺さなければ生きていけない事を知るテツ・アケミを守るため自衛隊に入り銃を握るアツシ。こういう状況を作り出せば各人物の恋愛観・死生観をあぶり出し、読者に疑問を投じたり感動を与えたり、どの人物の考え方に共感できるかといった話題にも転じることが出来るけど、台詞回しに変化が乏しい上にキャラの性格設定も似ているから興ざめしてしまう、それさっき描いたじゃん……と何度つぶやいたことか(あるいはちせとテツの短い平和な時間と六巻のシュウジとちせの同棲模様、またいずれも目的地までの道程の描かれ方が同じ等も)。もちろん、描写に差はある。同じような展開でありながら、ちょっとずつシュウジとちせの恋愛における成長を描いており、物語当初は平和・日常すなわち生と戦争・非日常すなわち死がまったく別の世界として互いに関係なく存在していた(一巻22頁1・2コマのシュウジの独白参照)ものの、戦場を描写したことにより・つまりちせの視点を増やすことによって生と死が互いに交じり合っていくわけだ。これはちせ自身の身の上に起こる「恋をしている自分は人間」と「殺戮を続ける自分は兵器」(五巻6頁テツ「おまえ今、どっちだ」がわかりやすい)、この二つのせめぎあいにも等しい。寂しいだの恋してるだの傷つけているだのといった感傷的な台詞の背後では、実はとんでもない対立が描かれていたのである。再読して恋愛色よりも生死色の方が濃いような気がしてきた。死神とも呼ばれてしまうちせの視点を描けば、当然死を描写しなければならない。ここでいう死は戦争だから戦場も描かなければならない。でも戦争の設定やちせが最終兵器に改造された経緯は描きたくない。BSマンガ夜話で夏目氏は何を描くかではなく何を描かないかと語っていた、作者が描き続けたものはシュウジ視点である、ちせ視点は交換日記で事足りたはずだが、ちせにもシュウジと同じ試練を与えたくなったのかどうか知らん、恋愛については制約を設けず描けるだけ描いている。描かなかったのは舞台設定であり、主人公周りの状況はいろいろと書き足している気がするのだが、どんなもんだろうか。
 第二が演出である。構成にはずいぶんと気を遣っていながら、その表現はいい加減である。台詞が多いゆえに見落としがちだが、まず第一話からして立ち位置の突然の反転がある、一巻36頁と42頁を比べればわかる。シュウジはちせの左に立っていたはずだがいつのまにか右に移動している。26頁ではちせの右側に立っていて、途中いろいろ話すうちに左側へ移動しまた次でキスしながら右に戻った……って、おいこら、リアルな恋愛描写ってそれはあくまでも二人の会話の内容なんである。台詞の流れを重視するあまりに吹き出しの位置を優先した結果かと思われる(77頁にも同様の失策あり)。重箱の隅といえばそうなんだけど、こういうのを見つけてしまうと作者に対する不信感が芽生えてしまうわけであり、他にもあるんじゃなかろうかと探してしまうのである(途中で力尽きたけど)。作者は映画のような物語を考えていたらしいが、結局それは脚本・ネームの段階であり、実際の撮影ではそれを生かしきれないままになってしまったのでないか、監督としての作者はあまりになおざり……まあ漫画だからね、映画のようにはいかないし、漫画だから出来る構図も劇中に実際あるわけで。でも二時間の映画を撮ろうとしたら四時間のものになってしまったというわけなんだから、当然二時間に縮める作業は必要なんだよな。でもしない。長く長くしていく。よくわからん。
 以前にも描いたけど、不愉快なのは作者の創作態度なのだ。恋愛に重きを置く代わりに戦争はいい加減、ということ。戦争を描かないと決めたなら徹底すべきだった、それが下手に何かをほのめかすものだから詳細な設定を詮索してしまう人々が出てくるは戦争や死を小道具にするなと倫理観を問うものがいるは、私みたく短いものを期待していた輩が無駄と勝手に考える部分を愚痴るは(個人的にふゆみとテツはいらない、ここをスパッと切って替わりにアケミとアツシの描写を増やす、これでも十分描けたと思われるが)。
 さてしかし、面白く読んでしまう自分も一方にいるわけで、これもまた不愉快の一因だという話。


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